榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

君は、太平洋戦争の早期終結に尽力した人々がいたことを知っているか・・・【情熱の本箱(107)】

【ほんばこや 2015年10月13日号】 情熱の本箱(107)

太平洋戦争期の我が国の陸軍は主戦論一色に染まっていたと思い込んでいたが、これは皮相的な見方でしかないことを、『主戦か講和か――帝国陸軍の秘密終戦工作』(山本智之著、新潮選書)が教えてくれた。

「本書では、今まであまり知られることのなかった一部のエリート軍人たちの動きを軸にしつつ、陸軍中央を、戦争継続を主張した主戦派、早期戦争終結を主張した早期講和派、そして、戦況の推移にあわせて戦争継続路線から早期講和路線に鞍替えしていった中間派という3種類の派閥に分類して、最終的に戦争終結にいたった軌跡を追っていく」。

私が本書に強い関心を抱いたのには、個人的な理由も存在した。私の母方の伯父が陸軍大学校を優秀な成績で卒業後、大本営参謀として活動していたが、敗戦に責任を感じ、故郷の福岡県・高田町に隠棲したその生き方に敬愛の念を抱いてきたからである。

「アジア太平洋戦争期の陸軍内は、決して主戦派一色ではなく、早期講和派と位置づけられるエリート軍人たちが存在した。そして、彼らが当初集結したのが、第十五課(第二十班)とよばれた参謀本部戦争指導課(戦争指導班)であった」。

「本書における主戦派とは、主としてアメリカとの戦争開始に最も熱心であった開戦時の参謀本部作戦課の参謀たちを指している。なかでも、特に中心的な役割を果たしたのが、山形県出身の服部卓四郎陸軍大佐である」。太平洋戦争開戦へと主導した参謀本部作戦課のメンバーには、辻政信中佐、瀬島龍三大尉などの名も見える。

「対する早期講和派の主要人物は、松谷誠と酒井鎬次の2人である。・・・(松谷は)主戦論の吹き荒れる参謀本部内で、世界戦争終結のための研究を開始し、早期戦争終結論を東条英機に意見具申して、怒りをかい、1944年7月、支那派遣軍に左遷された。しかし、ほどなく陸相秘書官として陸軍中央に復帰、陸相秘書官・首相秘書官として終戦工作を行い、敗戦をむかえた。・・・(もうひとりの酒井は)予備役陸軍中将であり、東条とはもともと仲が悪かったが、それでも、1943年11月には参謀本部付に就任した。彼が講和工作に果たした役割は、参謀本部内でしか知り得ない情報を、東条内閣打倒工作や終戦工作を行っていた近衛文麿グループに提供したことである」。

「服部・松谷・酒井の三人が、参謀本部にほぼ同時期に勤務していた事実は興味深いが、多数派として最終的な決定権を握っていたのは彼らではなく、杉山、梅津、阿南ら中間派の首脳たちであった」。

「大日本帝国の中枢で、戦争の行方を深く憂慮する存在がいた。他ならぬ昭和天皇である」。

「東条内閣打倒工作に従事し、隠れ早期講和派の一人ともいえるのが細川護貞であった。・・・細川が酒井に戦争の早期終結についての助言をもとめて接触するようになる。そして、1943年11月、酒井は細川などを介して、近衛文麿、高松宮といった重臣、皇族らの東条内閣打倒工作や終戦工作支援のため本格的に活動し始めた」。

近衛の東京・荻窪の私邸「荻外荘(てきがいそう)」は、近衛らの政治密談の場としてよく使われたが、これは情報が外部に洩れることを防ぐためと、憲兵の監視を掻い潜るためであった。因みに、荻外荘は私の実家から100mの距離だ。

当時、細川らが苦慮したのは、東条が昭和天皇の信頼を得ていたからである。その信頼ぶりは、戦後になっても、東条のことを、「彼程朕の意見を直ちに実行に移したものはない」(『側近日誌』)、「東条は一生懸命仕事をやるし、平素云つていることも思慮周密で中々良い処があつた」(『昭和天皇独白録』)と語っていることからも窺える。私は東条が昭和天皇に気に入られていたことを、予々不思議に思っていたが、その背景を本書で知ることができた。東条は、陸軍に関する問題を細大漏らさず三段構えで上奏していたのである。先ず事前に研究問題の要旨を、次いで経過の中間報告を、最後に成案をという具合である。このように入念で「真面目な上奏攻勢」が、昭和天皇の厚い信頼を勝ち取る要因となっていたのである。

「酒井が『重臣』、松谷が軍部内や外務省など『軍官』方面に働きかけて、早期講和派の連携関係が構築されつつあった。この役割分担によって、早期講和派は人脈の広さを維持することができたわけで、松谷と酒井がそれぞれ単独で動いても、ここまで反東条・反主戦派のネットワークが広がることはなかったであろう」。「次第に、外務省・宮中・海軍に繋がる、松谷―重光・加瀬(外務省)、松谷―松平(宮中)、松谷―高松宮(海軍・皇族)、中軸となる松谷―酒井(陸軍同士、軍官民役割分担)、在野の重臣・皇族に重点を置いた酒井―近衛(重臣・民間)、酒井―高松宮(海軍・皇族)という各ラインの連携関係が構築されつつあった」。準備が整ったと判断した松谷は、陸軍の上層部に説得工作を行う。それは、ドイツの敗北が決定的になった以上、ソ連仲介による終戦工作を行うべきであるという意見具申であった。

主戦派の反対、中間派の優柔不断など紆余曲折があり、漸く、ソ連仲介による終戦工作が国策として決定されたのは、1945年6月22日の、異例ともいうべき天皇招集による御前会議を経てのことであった。

「しかし、時すでに遅し。このように日本側の対ソ交渉計画は着実に進められていたが、当のソ連は、ヤルタでの密約に従って対日参戦をもくろんでいたから、交渉には消極的であった」。従って、交渉は進まず、時は徒に過ぎていき、我が国は原爆投下という大惨事に行き着いてしまったのである。

松谷のように大局観と勇気を兼ね備えた人物の存在の重要性と、巨大組織の意思決定の難しさを痛感させる、貴重な一冊である。