榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

ブッダは実在しない、と断言できるのか・・・【情熱の本箱(119)】

【ほんばこや 2015年12月22日号】 情熱の本箱(119)

私は、仏教徒でもキリスト教徒でもないが、ブッダとイエスには深い関心を抱いている。偉大な思想家としての、史的存在としてのブッダとイエスに興味があるのである。

ごく大雑把に言うと、ブッダが創始した仏教が、没後、時を経て、小乗仏教と大乗仏教に分かれ、双方ともさらに細分化されていったと理解してきた。故に大乗仏教各派の精緻を極める教義は、ブッダの元々の真の教えからは遠く隔たってしまっていると慨嘆してきたのである。なお、小乗仏教というのは、大乗仏教側が言い出した蔑称である。

ところが、『ブッダは実在しない』(島田裕巳著、角川新書)には、私の考えを根本から覆すことが記されているではないか。

「東洋研究のなかから『仏教学』という新しい学問が生まれるようになり、ヨーロッパ各国の大学では、仏教研究が盛んになっていく。その際に、仏教学の研究者は、仏教のオリジナルな形態がどういったものであるかを明らかにする作業に力を入れた。ブッダという開祖はどのような人生を歩み、どういった教えを残したのか、その教えはどのような形で弟子や信者に伝わり、仏教という宗教が形成されていったのかが研究されたのである。そうした近代の仏教学が明らかにしようとした初期の仏教は、当初、『根本仏教』や『原始仏教』と呼ばれた。その際に、原始仏教の教えは、パーリ語によって記された仏典のなかに残されていると考えられた」。

「原始仏教は、それまで日本人が知っていた大乗仏教とはまったく性格が異なるものである。・・・明治時代に入り、日本社会の近代化が推し進められるなかで、日本には、2つの仏教が並立される形で存在することになる。一方が、伝統的な大乗仏教である。日本に存在する各宗派は、すべてが大乗仏教の流れに属するものであった。もう一方で、明治の日本には、新しくヨーロッパから原始仏教が取り入れられた。これによって、大乗仏教と原始仏教が並立することとなったのである。歴史的に考えれば、原始仏教からやがて大乗仏教が生み出されたことになる。しかし、大乗仏教は原始仏教を批判したところに生まれたものであり、両者の間には深い断絶があった。・・・近代仏教学が入ってくる以前の時代に生きていた日本人は、僧侶であろうと、一般の俗人であろうと、原始仏教を知らないわけだから、仏教の歴史をまったく誤解していたことになってしまう。しかも、原始仏教にこそブッダの直接の教えが反映されているのであれば、日本人はブッダの教えをまったく知らないまま、仏教という宗教を信奉してきたことになる」。

現在の日本では、平安時代に生まれた天台宗と真言宗、鎌倉時代に始まる浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗が、仏教勢力のほとんどを占めているが、その開祖の最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮、一遍は、一人としてブッダの教えを知らないまま、それぞれが勝手に教えを説いていたことになる。これは相当におかしなことだという疑問から本書は出発している。

原始仏教を伝えるパーリ語仏典の中で極めて重要とされているのが、『スッタニパータ』である。著者は、「ブッダの直説とされるものは、あまりに単純で、あっけないものである。正直なところ、『スッタニパータ』の第4章と第5章を読んで、衝撃を受けることがないのはもちろん、そこに強くこころを揺さぶるものを見出すことは難しい。もっと言えば、本当にこれは、ブッダが語ったものなのだろうかという疑問がわいてくる。さらに言えば、果してこれは、歴史上に存在した一人の人物が語ったことなのだろうか、それも疑わしくなってくる」として、ブッダが歴史上の人物として存在した明確な記載はないと決めつけている。私も、大分以前に『ブッダのことば――スッタニパータ』(中村元訳、岩波文庫)を読んだが、物足りないというか、がっかりしたというか、そういう印象を持ったことを覚えている。

「歴史上の人物としてブッダが存在したということについて、明確な証拠もなく、そのブッダが何を説いたのかについてとなると、ほとんどはっきりしていないということが明らかになってくる。仮にブッダが実在し、その教えは『スッタニパータ』の第4章と第5章に示されているのだとしても、そこから世界宗教としての仏教が生み出されていったとはとても考えられない」という著者の主張に、ブッダの実在を信じている私としては、全面的な賛成はできないが、已むを得ない結論かなという気がしている。

さらに、仏教の発展(私にとっては、堕落)が詳しく解説されているが、正直言って、あまり食指が動かない。「もともとブッダという人物が実在していたわけではなく、長い時間をかけて、一人の人物が作り上げられてきたことになる。そう考えなければ、ブッダということばが最初に複数形で用いられていたことも、仏伝図が一人の人物の生涯としてまとめあげられていなかったことも説明できないのだ」、日本で一番読まれている仏教の経典『般若心経』では、「あらゆる事柄が無ということばを使うことで否定されている。その際に否定の対象になっているのは、大乗仏教の立場からは小乗仏教と呼ばれてその価値を否定された、大乗仏教以前の仏教の教えである。・・・般若心経においては、原始仏教から部派仏教(小乗仏教)へと伝えられた基本的な教義を、空の思想にもとづいて、すべて否定する傾向が見られる」、「日本の仏教は、ブッダの仏教ではなく、(各宗派の)宗祖の仏教である」――といった指摘は勉強になったが。

私の敬愛するブッダの実在が否定されてしまい、残念至極であるが、本書はブッダのことを知りたいと思っている人にとっては、必読の書である。