榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

『夜と霧』のフランクルにとっての「死」とは、実存的精神療法とは・・・【情熱の本箱(185)】

【ほんばこや 2017年5月8日号】 情熱の本箱(185)

夜と霧――ドイツ強制収容所の体験記録』(ヴィクトール・E・フランクル著、霜山徳爾訳、みすず書房)の著者として知られるヴィクトール・E・フランクルの『人間とは何か――実存的精神療法』(ヴィクトール・E・フランクル著、山田邦男監訳、岡本哲雄・雨宮徹・今井伸和訳、春秋社)は、精神科医としての著作であるが、私は3つのことに注目した。

その第1は、テレージエンシュタット、アウシュヴィッツ、カウフェリング第3、テュルクハイムという4つの強制収容所生活を生き延びたフランクル自身の経験に基づく、強制収容所に収容された人間のタイプの分析である。因みに、本書は、強制収容所で亡くなった、フランクルの最初の妻、ティリーに捧げられている。

タイプ1は、収容されて全てのものを奪われ、絶えざる生命の脅威に直面して、鉄条網(収容所の周囲に張り巡らされた高圧電流の通った有刺鉄線)に跳び込むか、あるいは他の方法で自殺しようと決心する人間である。

タイプ2は、憤激や絶望を意識の外に押しやり、深刻な無感動の状態に陥る人間である。彼らの関心は、直接的な、最も差し迫った欲求に限定され、自分がその日その日をどう生き延びるかという、ただその一点に全ての努力が集中される。

タイプ3は、生死に直結する厳しい環境にあっても、未来への希望を失うことなく、自らの無感動を克服し、苛立ちを抑制することができた少数の人間である。「それらの人々は自分自身のためには何も求めず、ひたすら自分を捨て、自分を犠牲にしながら、点呼場を横切り、収容所のバラックを通って、こちらでは優しい言葉をかけ、あちらでは最後の一切れのパンを手渡していたのである」。

第2は、フランクルが「死」をどう捉えているかということである。

「時間における人間の有限性、人生の時間的な有限性、すなわち死という事実は、人生を無意味にしうるかどうか、という問いに答えることにしよう。われわれは、どれほどしばしば次のように責め立てられることであろうか――死は人生全体の意味を疑わしいものにするのではないか、死はすべてを最終的に無にしてしまうのだから、すべては結局、無意味なのではないか、と。しかし、死は本当に人生の有意味性を破壊することができるのだろうか。その反対なのである」。

著者は、一度次のように思い浮かべることを勧めている。「いま私は人生の終わりにさしかかっていて、私自身の伝記のページをめくっている。そして私は今まさに、ちょうど現在の時期を扱っている章を開いている。このとき私は、奇跡によって、次の章に何を書きこむべきかを決定するチャンスを持っており、またそれゆえ、私のいまだ書かれていない内的伝記の重要な章に、私はいわばまだ修正を施すことができるのだ、と思い浮かべてもらうのである。実存分析の格律は、次のような命法の形式に一般化することができるであろう。――あたかも、あなたが今なそうとしかけているように一度目の人生は過ちばかり犯してきたが、いまや新たに二度目の人生を生きているかのように生きよ。この想像的観念に専心することができたときには、人間は同時に、自分の人生のあらゆる瞬間に担っている責任の重大さを意識するであろう。この責任は、そのつどの次の瞬間から生ずべきものに対する責任であり、いかに次の日を形成するかということに対する責任なのである」。すなわち、死の訪れを覚悟した上で、その最後の日まで己の責任を果たすことによって、自分の人生を意味あるものにせよ、と言っているのだろう。

第3は、フランクルがフロイトとアドラーの精神療法への貢献を高く評価した上で、それらを基盤として打ち立てた自身の実存的精神療法を具体的に解説していることである。

「フロイトとアドラーの名をあげずして、誰が精神療法について語ることを許されるであろうか。精神療法について語るとき、誰が精神分析と個人心理学から出発せず、繰り返しそれらと関連づけることを避けることができるであろうか。両者は、何といっても、精神療法の領域における独自の偉大な体系なのである。これらの創始者たちが成し遂げた業績は、精神療法の歴史から除外して考えることのできないものである」。

フランクルの実存的精神療法を一言で言えば、こういうことになる。「実存分析の課題は、人間が自覚した自分の責任性に基づいて、自主的に、自分本来の使命に向かって突き進めるところまで彼を導き、誰のものでもない人生の意味ではなく、自分の人生の一回的にして唯一的な意味を見出すところまで彼を導くことにあるのである。そこまで導かれれば、人間はただちに、現存在の意味についての問いに――コペルニクス的転回を行うことによって――具体的にして同時に創造的でもあるような答えを与えるであろう。なぜなら、そのとき人間は、『責任性への応答を自ら呼び起こす』(デュルケ)ところにまで達しているからである」。フランクルの言う「実存的」とは、人間存在にとってふさわしい、という意味であろう。

ドナルド・F・トゥイーディーが、フロイトの精神分析とフランクルのロゴセラピー(実存主義的精神医学)との違いを際立たせるために、このように諷刺している。「精神分析では患者はソファーに横になり、言いたくないことを精神分析医に言わねばならない。それに対して、ロゴセラピーでは患者は椅子に座って、聞きたくないことを聞かされねばならない」。

フランクルの一言一句は、机上の空論でなく、強制収容所体験を踏まえているだけに、強い説得力がある。