榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

能動態でも受動態でもない中動態という世界が存在していたとは・・・【情熱の本箱(230)】

【amazon 『中動態の世界』 カスタマーレビュー 2018年2月23日号】 情熱の本箱(230)

ある若い読書仲間から「『中動態の世界』に対する榎戸さんの読後感を聞きたい」と言われてしまったので、已むを得ず、『中動態の世界――意志と責任の考古学』(國分功一郎著、医学書院)を手にした次第である。私は哲学の最重要課題は、人間は死をどう考えるべきか、人間はどう生きるべきか――と捉えているので、本来なら本書には近づかなかっただろう。その上、スピノザの哲学は私の好みではないので、スピノザを信奉している著者の本は敬遠したはずだ。

「能動とは呼べない状態のことを、われわれは『受動』と呼ぶ。受動とは、文字通り、受け身になって何かを蒙ることである。能動が『する』を指すとすれば、受動は『される』を指す」。

「(エミール・)バンヴェニストはさらに興味深い事実を伝えている。能動態と受動態の区別が新しいものであるとはどういうことかと言うと、かつて、能動態でも受動態でもない『中動態』なる態が存在していて、これが能動態と対立していたというのである。すなわち、もともと存在していたのは、能動態と受動態の区別ではなくて、能動態と中動態の区別だった。この事実はそれをはじめて知った者にとっては驚くべきものである。能動と受動の対立はふだん、あたかも必然的な対立であるかのように、われわれの思考の奥深くで作用している。そして、それをなぞるかのように文法も能動態と受動態の2つの態をもつ。しかし、もともとそれとは別の態が存在していたし、別の対立が存在していた。能動態と受動態の対立は普遍的でも必然的でもない」。私も中動態という態が存在していたという指摘には驚いたが、中動態は能動態と受動態の中間という捉え方は早計なようだ。

「受動態はずいぶんと後になってから、中動態の派生形として発展してきたものであることが比較言語学によって、すでに明らかになっている」。受動態よりも中動態が先に存在していたというのだ。

「(バンヴェニストは)サンスクリット語、ギリシア語、ラテン語、アヴェスタ語に共通する、能動態のみの動詞と中動態のみの動詞をピックアップし、次のような表を提示する。●能動態のみのもの=在る、行く、生きる、流れる、這う、曲げる、風が吹く、食べる、飲む、与える。●中動態のみのもの=生まれる、死ぬ、ついて行く、続いてくる、主となる、わが物とする、寝ている、座っている、故郷に帰る、享受する、利益を得る、被る、耐え忍ぶ、心が動揺する、構う、気にかける、話す」。このように具体的に語句が例示されると、理解が進む。

「能動と受動の対立においては、するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の外にあるか内にあるかが問題になる」。ここで、能動と中動の対立の構図が明らかにされている。

「バンヴェニストは中動態の定義に付け加えてこう述べている。『主語はその過程の行為者であって、同時にその中心である。主語(主体)は、主語のなかで成し遂げられる何ごとか――生まれる、眠る、寝ている、想像する、成長する、等々――を成し遂げる。そしてその主語は、まさしく自らがその動作主である過程の内部にいる』。ここから『中動態のみのもの』に掲げられている動詞、『生まれる』『死ぬ』『続いてくる』『わが物とする』『寝ている』『座っている』等々を見てみれば、その内容の中動態的な性格がかなりよく分かるはずである」。著者の言うとおり、中動態的な性格が明確になってきた。

「能動態と受動態の対立は『する』と『される』の対立であり、意志の概念を強く想起させるものであった。われわれは中動態に注目することで、この対立の相対化を試みている。かつて存在した能動態と中動態の対立は、『する』と『される』の対立とは異なった位相にあるからだ。そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」。いよいよ、「意志」の登場である。

「バンヴェニストは言語の思考に対する作用の様態を、『規定』という語によってではなく、『素地を与える』という語で名指した。この言葉は、われわれがバンヴェニストの議論から取り出した定式、すなわち、言語は思考ではなくて思考の可能性を規定するのであり、その規定作用は社会や歴史という場において展開されるという定式をうまく一言で言い表したものとして理解できるだろう」。

「(バンヴェニストの定式によれば)言語は思考を規定するのではない。言語は思考の可能性を規定する。すなわち、言語は思考に素地を与える、思考の可能性の条件である。このことは、言語が思考にさまざまな仕方で作用する場の設定を要請する。現実の社会であり歴史こそがそのような場に他ならない」。言語と思考の関係、それらと社会や歴史との関わりが考察されている。

「おそらく、いまに至るまでわれわれを支配している思考、ギリシアに始まった西洋の哲学によってある種の仕方で規定されてきたこの思考は、中動態の抑圧のもとに成立している」。西洋哲学の本質に迫っている。

著者は、本書をこう結んでいる。「完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。われわれはそのことになかなか気がつけない。自分がいまどれほど自由でどれほど強制されているかを理解することも難しい。またわれわれが集団で生きていくために絶対に必要とする法なるものも、中動態の世界を前提としていない。われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」。

本書によって、中動態というものを知ることができ、中動態の世界を生きるにはどうしたらよいのかを学ぶことができた。久しぶりの頭の体操でいささか疲れたというのが正直な感想である。