榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

中国から日本へ――禅の歴史の全体像が俯瞰できる一冊・・・【情熱の本箱(304)】

【ほんばこや 2020年2月3日号】 情熱の本箱(304:)

日本の禅宗史の核となる人物のそれぞれについては、ある程度知っていても、禅宗史の全体像に対する理解は、今一つであった。この足りない部分をきっちりと埋めてくれたのが、『禅とは何か――それは達磨から始まった』(水上勉著、中公文庫)である。

中国における禅の始祖は、言うまでもなく、インドから中国にやって来た達磨(だるま)である。「(中国の梁都・金陵<現在の南京>から)洛陽にゆくと、近くの嵩山少林寺に入って、終日壁に向って坐禅していた。印度からきてただすわっている髭むじゃらの僧を、人々はオカシイと思うだけで、理解できなかった」。

528年に死去した達磨の思想は、「二入四行論」に尽きるという。「真理にいたる方法に、2つの立場と4つの実践が要るというのである。・・・梁の武帝に、いくら寺を建て、写経をしても『無功徳』とこたえた達磨の考えの根がここにある。達磨はつまり、壁のように座って不動の心で生きよ、と説いた。物事を対立的にとらえないで、直覚的に見つめてとらえよという。むずかしい理論のようだが、何どもかみしめていると、わかってくる、中国の風土に、この達磨の思想はよく根づいた」。

達磨が始めた中国禅宗は、二祖・慧可→三祖・僧璨→四祖・道信→五祖・弘忍→六祖・慧能→南嶽→馬祖と受け継がれていく。「わが国の栄西が虚庵懐敞からもちきたった禅は、つまり、これである。道元の嗣法した天童山の長翁如浄の禅もこの流れである。日本禅宗の2宗は、この馬祖の、日常生活で禅を実施するという宗旨を踏まえている」。

馬祖の後は、百丈→黄檗→臨済と受け継がれていく。「一休宗純や大愚良寛が弟子をもたず、師匠よりの印可をも重視せず、説教や寺院経営もやらず、自己一代のオリジナルな仏法で終わるのは、この臨済の思想といってもいいだろう」。

日本禅宗は、1168年と1187年に入宋した禅を学んだ 栄西の臨済宗、1223年に入宋した道元の曹洞宗、1654年に我が国に渡来した明僧・隠元の黄檗宗――のいずれかに属する。臨済からは一休が、曹洞からは正三(しょうさん)、桃水、良寛が生まれている。「(日本の)純禅の流れは一休、桃水、良寛のように地を這って生きる乞食頭陀生活型と、正三、沢庵、白隠のように、宗派内にあって、立宗の初心にもどれと叫びつつ日本の純禅を開拓しようと闘った型の2つに分れる。沢庵、正三、白隠、盤珪には武家の加護があった。一休、桃水、良寛には権力の加護はなかった。あったとすれば民衆の加護をうけて風狂を生きただけだ」。

「(曹洞宗を始めた)道元を語らねば日本禅宗史は大きく欠落する。なぜなら、臨済宗の栄西、大応などのように、道元も入宋し、独自の禅をもち帰ったからだ。けれど、栄西が日本へ帰って既成宗団の天台、真言の宗旨から完全に脱却できなかったのに比べ、道元は、徹底的に反時代的に生きた。もともと山上仏教に絶望しての入宋だった。異国での修行研鑽で、しっかりと自己の宗教を決定して帰国し、『仏教に正像末を立つること暫く一途の方便なり』(『正法眼蔵随聞記』)といい切って末法思想さえみとめなかった。鎌倉新仏教では異色の求道、只管打坐の人であった。桃水、正三、良寛などがこの法脈に入る」。

道元は、こう言っている。<人は死んだのちにふたたび生きかえることはできない。しかし、生が死になるといわないのが、仏法のならわしである。だから、これを不生といったのだ。また死が生にならないのも仏教のさだめ。それゆえ不滅という。このように生は一時のあり方で、死もまた一時のあり方である。それは四季のうち、冬と春があるようなものだ。誰も冬がそのまま春になると思わないし、春がそのまま冬になるとは思わない。春はあくまで春。冬がうつったものでも、夏に代わるものでもないのである。生も死も永遠の真実である>。「(道元が)新しい禅を説いた以上に、いかに偉大な詩人で思想家だったかがわかろう」。

私にとって興味深いことが、2つ記されている。1つは、良寛の環境についてである。「越後の歴史を調べてみると、良寛の住んだ五合庵のある西蒲原郡下は信濃川の出水で、3年に1度の水害をうけ、分水工事の哀訴は200年に及び、完成は大正年代に入っている。藩政時代の疲弊は言語に絶する。『中之島村史』をみても、飢餓の年は3年に1度。そのような村々から、売られていった娘たちが、上州各地の飯もり宿で18、9を頂点にして死亡している資料も、最近、『新田町史』などで発見された。年ごろになれば売られてゆく娘たちの、少女時代に、良寛は、手鞠をつき、かくれんぼしていた。5月の田植時、秋の収穫期、良寛は野良を修羅として働く、農婦の涙と血汁のくらしを、どのような眼で眺めたか」。

もう1つは、良寛と一休の両者が、最晩年に至り、理想的な若い女性に巡り合ったことだ。「良寛は70歳。貞心39歳である。良寛は70になって、はじめて、女性の心の友を得た。ぼくはここで一休宗純が77歳でめぐりあった盲女森侍者のことに思いをかさねる。『この若い女性に会って、良寛の枯れなんとしていた精神が俄かに潤い、いかにみずみずしく蘇ったかが推察される』とは東郷豊治氏の感慨である。『良寛は貞心尼にあって、ますます優秀な歌を作った。その歌は寒く乾ききったものではなく、恋人に対するような温い血の流れているものである』『死に近き老法師の良寛が若い女性の貞心尼に対した心は真に純無礙であった』と斎藤茂吉は『短歌私鈔』の書いた」。

よく練られた、学ぶことの多い一冊である。