榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

荘子さん、あなたと老子さんの思想の違いが漸く分かりましたよ・・・【山椒読書論(286)】

【amazon 『荘子 内扁』 カスタマーレビュー 2013年9月22日】 山椒読書論(286)

老子と荘子(そうし)は一括して「老荘思想」と呼ばれることが多いが、老子と荘子の思想に違いがあるのか、違いがあるとすればどう違うのか――ということが、予て気になっていた。そこで、『荘子(そうじ) 内篇』(荘子著、福永光司・興膳宏訳、ちくま学芸文庫)を繙いてみた。

巻末の福永光司の解説が実に素晴らしい。私の疑問に明快に答えてくれたのである。

先ず、荘子と孔子、孟子との違いについて、「荘子は中国の歴史が育てた最も偉大なまともでない思想家なのである。だから『荘子』のなかには、『論語』に見られるような篤実温厚な人生の智恵や、『孟子』に見られるようなひたむきな理想主義者の教説はほとんど見られない。『論語』や『孟子』が、そのままで『倫理の教科書』となりうる性格をもつのに対して、『荘子』は必ずしも、そうではないのである」と述べている。ここまで読んだだけで、早くもワクワクしてくるではないか。

「孔子や孟子はまともな世界に住んでいる。まともな世界とは、常識的な思考が肯定する世界、世俗的な価値が権威をもつ世界である。荘子はこの常識的な思考と世俗的な価値とを哄笑する。だから彼の手にかかれば、孔子の謹厳さも忽ち独りよがりのおっちょこちょいとなり、絶世の美人も忽ちグロテスクなしゃれこうべとなる。当代の聖賢も彼の前では翻弄され、古今の歴史も彼の前では戯画化され、宇宙の真理も彼の前では糞尿化される。彼はその翻弄と戯画化と糞尿化のなかで、人生と宇宙の一切を声高らかに哄笑するのである」。

「荘子ほど人間の醜さと愚かさと卑屈さと驕慢さを知り抜いている思想家は稀であろう。荘子ほど人間社会の暗さと険しさ、傷つき易さと覆り易さを味わいつくしている哲人は稀であろう。彼は一個の偉大な人間学者であり、社会学者でさえある」。

「荘周(=荘子)の世俗的な生活は、彼自らがいみじくも表現しているように『汚?の中の人生』であった。しかし彼はその汚?の中で、遊び戯れるすべを知っていた。自己の貧窮と戯れ、自己の汚辱と戯れ、自己の肉親の死と戯れ、自己の人生と戯れるすべを荘周は知っていたのである。彼の生活は、彼の『遊戯(ゆげ)』であった。しかしその遊戯は彼が泥まみれの人生の底に見出した彼の解脱にほかならなかった。荘周の超越は、彼の『汚?の中の人生』にささえられているのである」。

「人間は自己の最大の悲しみと懼れを、死すべき存在としての自己に見出す。今日の自己が明日の自己とつながらぬ悲しみ、明日の自己が永劫の時と絶たれる懼れ、人はその悲しみと懼れを自己存在の始まり(生)と終り(死)の問題として苦悩する。生存の各瞬間における断絶の意識が、不安と絶望の蒼白い泡沫として生の深淵に浮き沈みするのである」。荘子は、生と死が一つであり、物と我が一つであり、是と非が一つであり、可と不可が一つなのだという世界に立っている。これが荘子の超越であり、荘子の解脱なのである。『荘子』とは、解脱の中国的論理を明らかにした書物なのだ。

いよいよ、老子と荘子との違いであるが、福永は、「荘子と老子は、春秋戦国のほぼ同じ時代と、宋文化圏のほぼ同じ地域とを背景として、同じような思想的基盤の上に立つものではあるが、両者の思想としての性格には、必ずしも同じくないものがあり、老子の思想がより多く処世の智恵であるのに対して、荘子の思想はより多く解脱の智恵であったということができよう。老子の思想がより多く現世的な生を問題としているのに対して、荘子の思想は、より多く絶対的な生を問題としているということができよう」と解説している。

『荘子』の本文(原文、読み下し文、現代語訳、注がセットとなっている)の現代語訳は、こんなふうである。「それはあの黄帝が聞いたってとまどう問題だよ。まして孔丘(=孔子)ごときに何が分かるものか。それに君もまた早合点がすぎるなあ。・・・(聖人は)日月と並び、宇宙を小脇にかかえて、万物と一つになり、文目(あやめ)も定かならぬ境地に身を置きつつ、奴隷になったつもりで他人を尊重する。世人はあくせくと働きまわるが、聖人は間ぬけでポカンとしながら、永劫の時間に参入してひらすら純粋さを全うする。万物をあるがままに受け入れ、一切をそのふところに包みこむ。生を喜ぶのは、もしかしたら惑いなのかも知れない。死を憎むのは、もしかしたら幼時に故郷を喪失した人(弱喪<じゃくそう>)が帰郷を忘れたようなものかも知れない。・・・夢を見ているときには、それが夢だということに気づかず、夢の中で夢占いをしたりしているが、目が覚めてはじめて夢だったとさとる。(人間の一生もそんなものだ)。大いなる目覚めがあってこそ、一生が大いなる夢とさとるのだ。ところが愚かな者は自分が覚めているつもりで、小賢しげに、したり顔して、自分の好みでやれ貴いの賤しいのと分別している。何たるこのかたくなさ。孔丘も君もみな夢を見ているんだ。いや君が夢を見ているというこの私もまた夢を見ているんだ」。

乱暴だが、私の印象を一言で言うと、「老子は自分の外のことに関心があり、荘子は自分の内のことに関心があった。荘子は老子よりも、考え方が自然体で、肩の力が抜けている」ということになるかなあ。