榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

友よ、涙こらえて立ち上がれ・・・【続・独りよがりの読書論(12)】

【にぎわい 2009年12月20日号】 続・独りよがりの読者論(12)

初めて読んだ時に知的興奮を与えてくれた本が、いつの間にか出版元品切れや絶版になっていることが多い。実力があり仕事のできる人間が、なぜか世に認められることなく表舞台から去っていったような感じで、寂しい限りである。こういう意味で、私の心に忘れがたい印象を残している本が2冊ある。

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その1冊は、『嬬恋・日本のポンペイ』(浅間山麓埋没村落総合調査会・東京新聞編集局特別報道部共編、東京新聞出版局。出版元品切れ)である。

ヒッシオ、ヒッシオ、ワチワチという異様な音を響かせて、山津波のような熱泥流が押し寄せてくる。逃げ惑う村人たちに交じって、1人の婦人が腰の曲がった母を背負い、村の裏手の高台にある観音堂に逃れようとする。息を切らせながら、観音堂の石段の最下段に足をかける。50段の石段を上り切った村人たちから、母娘に励ましの声がかかる。「早(はよ)う! 早う!」。しかし、その瞬間、2人は背後から襲ってきた熱い泥に呑み込まれてしまう。

文字どおり生死を分けることになった、あと30数段の石段を上れなかったばかりに、泥中深く埋められてしまった無念の母娘が、タイム・カプセルの中で眠っていたかのように、重なったままの姿を現したのは、それから200年を経た昭和54年の発掘調査の時のことであった。頭蓋骨に基づいて復元された2人の像が、観音堂の裏手の嬬恋(つまごい)村歴史民俗資料館に展示されているが、どちらもなかなか上品な顔立ちをしている。2体とも毛髪が一部残っており、母親の方は、木綿の繊維跡があったことから、噴火で噴き上げられた軽石などの落下から頭を守るため綿入れ頭巾をかぶっていたことが分かっている。なお、この鎌原(かんばら)観音堂は埋没を免れた上から15段の石段とともに現存している。

天明3(1783)年8月5日午前11時、浅間山の大噴火により大量の火砕流が噴出。山腹を時速100km前後の猛スピードで、不気味な轟音を立てながら流れ落ち、地表の土砂、岩、水を巻き込んだ熱泥流が宿場村・鎌原を直撃。鎌原村は火口から12km離れているが、熱泥流が襲いかかったのは、噴出からわずか10分後のことだっただろう。鎌原村全体を厚さ4~5mの泥の底に沈めた熱泥流は、人や家畜、家屋などを押し流し、吾妻川に流れ込む。川沿いの村々を巻き込みながら、利根川に合流。利根川は氾濫し、噴火から1時間後にはかなり下流の前橋付近まで「黒土をねり候様なる水」が溢れ、押し流されてきた火石のために「川一面煙立ち相流れ」、人や家畜、家、家財道具などが重なるように流れ下ってきたと古文書が伝えている。

この浅間押し(熱泥流を土地の人はこう呼ぶ)による鎌原村の被害は、全118戸が埋没・流失し、死者は村の全人口570人の実に84%に当たる477人。生存者は村の外へ出かけていた者と鎌原観音堂に逃げ延びた者を合わせても93人(男40人、女53人)のみであった。当日の午後には、溶岩流が火口から6kmに亘って噴出し、現在では観光名所となっている鬼押出(おにおしだし)の奇岩群を形成した。この天明の大噴火の影響はこれだけにとどまらず、成層圏に達した火山灰の全国的な拡散で日照が遮られ、冷害が深刻化し、東北地方を中心に30万人の餓死者を出すに至った。いわゆる天明の大飢饉である。

鎌原村は「日本のポンペイ」と呼ばれることがあるが、ポンペイでは、ベスビオ山の大爆発後、住民の90%が生き残ったというのに、故郷を捨てて四散してしまったため、ポンペイは都市としての機能を失い、遂に二度と復興されることがなかった。これに対し、鎌原村の場合は、完全に廃墟となった村に辛うじて死を免れた人々が戻ってきて、悲劇に見舞われたその翌月からもう復興にとりかかっている。それも、妻を失った夫が、夫を失った妻と、子を失った親が、親を失った子と組み合わさって、新しい「家」(家族)をつくっての復興である。天明の大飢饉のさなか、大変な苦難を乗り越えての復興である。そして、旧鎌原村の真上に新しい鎌原村を築き上げたのであるが、この村人たちの復興への原動力はどこから生まれてきたのだろうか。

この世に残された者たちが涙をこらえて立ち上がり、力を合わせて新生・鎌原村を再構築していった過程に、思わず拍手を送りたくなってしまう。それにしても、新たに結ばれた夫婦の心境は複雑だったことだろう。いずれも、あの悪夢のような惨事で妻を失った夫であり、夫を失った妻であったのだから。そして、興味深いことは、この新たな家族づくり、村づくりが必然的に「身分差なしの共同体」づくりにならざるを得なかった点である。埋没前の鎌原村には当然のことながら一定の身分・財産による階層差があったが、鎌原村の再建はそうした階層差を無視した平等原理に基づいて行わざるを得なかった。残された夫、妻、子同士をどう組み合わせるにしても、わずか16%の人間しか生き残っていなかったからである。人的再編成と並行して、村づくりも進められ、道路の両側を間口10間(けん)(約18m)ずつ平等に区割りして、各戸に割り当てたのである。そして、現在に至るまで、鎌原ではどの家も間口10間のルールを守り続けている。鎌原の歴史は私たちに多くのことを語りかけてくる。

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もう1冊は、『ピラミッドはなぜつくられたか』(高津道昭著、新潮選書。出版元品切れ)である。

「ピラミッドは王の墓ではなかった」と言われても、そう簡単に認めるわけにはいかない。それなのに、この著者は、王墓説、天文台説、日時計説、葬祭神殿説などを否定するだけにとどまらず、ピラミッド=テトラポッド説を主張しているのである。

テトラポッドは護岸用のコンクリート製4脚波消しブロックの商品名であるが、その4つの足の先を線でつなぐと正三角形になり、正四角錐のピラミッドと似ているという、いかにもグラフィック・デザイナーらしい発想がこのテトラポッド説の原点となっている。

ピラミッドの築造時期は、なぜエジプトの古王国時代に始まり中王国時代で終わっているのか。ピラミッドの形は、なぜあれほど大きな正四角錐なのか。ピラミッドの築造場所は、なぜナイル川の西岸、それも北部に集中しているのか。これらの疑問を一つずつ解いていくと、ピラミッドは、古代エジプト人に計り知れない恵みをもたらすナイル川の治水・利水のための建造物、すなわち巨大なテトラポッドであったという結論に到達する。

ピラミッド築造の真の目的は、石材・金属を産出するエジプトの東部寄りへナイル川の流路を変更させ、筏による運搬に便利ならしめること、肥沃なデルタ地帯を誕生させること、と同時に、ナイル川の氾濫を調節することにあったのである。そして、驚くべきことに、このピラミッド築造という長期的な展望に立った国家的大事業は、今から4600年前に開始され、その後1000年に亘り歴代の王によってリレー式に受け継がれていったのである。

それにしても、小さなテトラポッドからの連想で遠大なピラミッドの謎を解いてしまうとは、この著者の思考回路はどんな構造をしているのだろうか。日本人による知的探検の書として見逃すことのできない1冊である。