榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

プルーストさん、失われた時は見つかりましたか・・・【続・独りよがりの読書論(15)】

【にぎわい 2011年6月20日号】 続・独りよがりの読書論(15)

マルセル・プルーストが14年かけて書き継いだ『失われた時を求めて』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦訳、集英社文庫、全13巻)を、鈴木道彦によって順次、翻訳され、単行本(後に文庫化)として刊行されるのを待ちかねるようにして5年かけて読了した時、私は3つの印象を抱いた。1つ目は、400字詰め原稿用紙で約10000枚という長編小説を遂に読み通したという達成感。2つ目は、20世紀を代表する小説という世の評価が間違っていなかったという満足感。因みに、20世紀の代表作と並び称される小説『ユリシーズ』(ジェイムズ・ジョイス著、丸谷才一、永川玲二、高橋雄一訳、集英社文庫、全4巻)は、私の好みに合わず、読み終えるまで苦痛の連続であった。3つ目は、近い将来、会社勤めをリタイアしたら、もう一度、最初から最後まで読み直したいという親近感。

物語の次の展開はどうなるのだろうとわくわくしながら読めたのは、原作の素晴らしさに加えて、プルーストに心酔している鈴木道彦のこなれた翻訳に負うところが大きい。読みたいけれど13巻という長さはどうもという向きには、『抄訳版 失われた時を求めて』(マルセル・プルースト著、鈴木道彦編訳、集英社文庫、全3巻)がある。

乱暴なことは承知の上で、この長い小説を一言で言えば、こうなるだろうか。著者のプロファイルを色濃く反映している主人公の「私」が、プチット・マドレーヌ(貝殻の形をした菓子)を紅茶に浸して口にした瞬間にまざまざと甦った幼時の幸福感から始まって、貴族(ゲルマント一族)とブルジョワジー(スワン家)への憧れ、胸躍る恋愛と嫉妬の苦しみ、華やかな社交界の裏表、理想とする文学・音楽・絵画(因みに、プルーストはフェルメールの熱烈なファン)の探求を通じて、遂に「時」をテーマにした小説を書こうと決意するまでの物語。ということは、これまで読者が読んできた『失われた時を求めて』こそ、作中でこれから書かれるはずの小説そのものなのだ。

第1篇「スワン家の方へ」、第2篇「花咲く乙女たちのかげに」、第3篇「ゲルマントの方」、第4篇「ソドムとゴモラ」、第5篇「囚われの女」、第6篇「逃げ去る女」のいずれも魅力的な物語であるが、私にとっては最終章の第7篇「見出された時」の印象が強烈だ。この「見出された時」を書きたいがためにプルーストはこの長い小説を書いたのではないか、と思っている。

人間観察の書でもあるこの物語では、「私」を巡って実に多くの多彩な人物が登場しては消えていき、あるいは再登場してくるのだが、ゲルマント一族で、社交界の大立者であり、傲岸不遜を絵に描いたようなシャルリュス男爵が、私には一番興味深い。このシャルリュスは実在のロベール・ドゥ・モンテスキウ伯爵がモデルであるが、彼は同性愛者である。作品の中の「私」はそのように描かれていないが、プルースト自身がバイセクシュアル(両性愛者)、すなわち同性愛者でもあることが、シャルリュス像に微妙な陰影を与えているのだ。社交界での輝かしい地位を失い、老いさらばえたシャルリュスは、「見出された時」でこのように描かれている。「卒中になりながら慇懃さを失わなかったシャルリュス氏が悲劇的な形で体現していた・・・すっかり骨抜きになりながら自分自身を惜しげもなく戯画のなかにさらけ出していた」、「およそとるに足りない人の挨拶にもいそいそと帽子をぬぐリア王そっくりのシャルリュス氏」、「やつれた残骸にすぎない老シャルリュス」――といった具合で、自分の老いと死を意識し始めた「私」は、「時」の破壊作用を発見するのである。すなわち、これらの変貌は失われた時の結果なのだ。

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プルーストを読む――「失われた時を求めて」の世界』(鈴木道彦著、集英社新書)は、『失われた時を求めて』の最高の入門書である。プルーストがこの長編小説の中で扱った意識、夢、記憶、スノビズム、愛、同性愛、ユダヤ人、文学、読書などのテーマが、分かり易く解説されている。

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プルーストを鍾愛する保苅瑞穂の手になる『プルースト 読書の喜び――私の好きな名場面』(保苅瑞穂著、筑摩書房)では、『失われた時を求めて』の魅力が存分に描き出されている。

「主人公は恋愛や社交界での付き合いを重ねるなかで、ますます真の幸福から離れて行く。かれがそれを掴むためには、年老いて、死が近づいて来るのを感じながら、最後にそれが自分にとっての真実だと確信できたもの、つまり無意識の記憶の真実を小説に描くことを決意する」に至る時の経過が必要だったのである。この意味で、この作品は恋愛小説であり、風俗小説であり、社交界小説であり、かつビルドゥングスロマン(教養小説)でもあるのだ。

「われわれは小説を読みすすんで行くうちに、この娘たち(いわゆる、花咲く乙女たち)だけでなく、小説に登場するほとんどすべての人物が時間を通して描かれていたことに気づかされる。その変化の最後にやって来るのが老いであり、死である以上、プルーストが小説の最後に、死の舞踏と呼んでもいい場面を用意して、登場人物たちの変わり果てた姿を描くことになるのは、小説の構想として自然なことである」という著者の指摘は、さすがである。

「長い小説の最後を飾るのは、ゲルマント大公夫妻の邸宅で催されるマチネ(午後の集い)の場面である。その場面でわれわれ読者は主人公とともに、小説がはじまってから、少なくとも半世紀に近い年月が流れたあとで、まだ生き残っている登場人物の変わり果てた老残の姿と再会することになる。目に見えない時間というものの実体をその姿に託して、目に見えるように描こうとした作者の意図がそこにあることはいうまでもない。それにしても、このマチネでの一連の場面はすごい」。「しかし、この一節でプルーストが描こうとしているのは、単に目に見えない時間の推移だけではなかった。それは、その時間の推移が人間にもたらす、避けようがない境遇の変転であり、零落の哀れさである。地上のいかなる栄華も、人間のいかなる驕りも、変化を免れることはできないという無常観」を、プルーストは示したかったのである。そして、「人間が一方では時間によって肉体を蝕まれながら、しかし他方では、その時間を記憶として内部に持つことによって、人間の精神がいかに大きな、深い存在になりうるか」というプルーストの到達点が、私たち読者に救いを与えてくれるのだ。