榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

本の虫の心を掻き立てる妖しい本たち・・・【続・独りよがりの読書論(16)】

【にぎわい 2012年4月1日号】 続・独りよがりの読書論(16)

私は本の虫である。休みの日は、朝早くから夜遅くまで本を読んでいる。しかし、ウィークデイは仕事があるので、そうはいかない。専ら朝夕の通勤時間が貴重な読書タイムとなる。電車内であろうと、本の世界に没入してしまうので、この時、心を掻き立てる妖しい本に出会うと少々困ったことになる。

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最初の刑事――ウィッチャー警部とロード・ヒル・ハウス殺人事件』(ケイト・サマースケイル著、日暮雅通訳、早川書房)は、まさに、そういう本である。ヴィクトリア朝英国を恐怖と興奮の渦に叩き込んだ幼児惨殺事件を捜査、解決したスコットランド・ヤードの実在の警部、ジョナサン・ウィッチャーが66歳で死去したのは、この事件に刺激されたコナン・ドイルがシャーロック・ホームズ・シリーズの第1作を発表する6年前のことであった。

常に厳重に戸締まりされていた大きな屋敷から連れ去られた3歳の男児が、中庭にある使用人用の屋外便所の穴に投げ込まれ、首が切断寸前の死体となって発見されたのである。懸命の努力を積み重ねたウィッチャーが犯人を突き止めるが、被疑者は裁判で無罪と見做され、釈放されてしまう。事態が急展開するのは、5年後に、ウィッチャーが犯人と名指ししていた人物が自白してからだ。ところが、この告白によっても、いくつかの不可解な謎が残される。遂にこれらの謎が解け、真実が明らかになるには、本の最終章まで待たねばならない。

これまで国内外のさまざまなタイプの推理小説に親しんできたが、事実を丹念に追ったノンフィクションの迫力、緊迫感は格別である。

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ぽるとがるぶみ』(佐藤春夫訳、人文書院。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)も、心を掻き立てられる本だ。マリアンナ・アルコフォラードという名の、ポルトガルの若き尼僧が、当地に駐屯していたフランスの士官と燃えるような恋に落ちる。しかし、この士官は1年後に突然帰国してしまう。この不実な恋人に宛てて書かれたマリアンナの5通の手紙は、置き去りにされた女の哀しみに満ちている。

この17世紀の書簡集は、スタンダール、ライナー・マリア・リルケ、芥川龍之介らに大きな影響を与えたそうだが、私たちにも、一番大切なことは何かを教えてくれる。愛する人がいる。愛してくれる人がいる。人間にとってこのほかのことは、さほど重要ではない。愛する人がいるならば、愛してくれる人がいるならば、少々の不幸や不運に愚痴をこぼすなんてことは、今日限りにしよう。

これは実在した女性が書いた本物の手紙と長いこと信じられてきたが、1962年に至り、ガブリエル・ジョゼフ・ド・ギュラーグというフランスの男性貴族によって書かれたことが証明されている。

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スウィフト考』(中野好夫著、岩波新書。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、一風変わった本だ。『ガリヴァー旅行記』の著者、ジョナサン・スウィフトは、悩みと不平・不満の塊とでもいうべき、徹底した厭世主義者であった。自分がこの世に生まれたことを嘆き悲しむあまり、自分の誕生日には喪服を着けて断食したという。スウィフトというのは複雑で、矛盾だらけで、多面的で、とても一筋縄ではいかない人物であるが、中野好夫の筆は、この特異な人間像を巧みに浮かび上がらせている。

私たちの周囲でもたまにスウィフト的な人を見かけるが、本物のスウィフトに比べると、いい人に見えてしまうから不思議だ。なぜかいつも不機嫌な人、しかめっ面をしている人には、恰好の教科書と言えよう。

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家畜人ヤプー』(沼正三著、幻冬舎アウトロー文庫、全5巻)は、小説としては相当の変わり種だ。ガリヴァーは、最後に訪れた「馬の国」でヤフーという醜悪な畜人に出会うが、このヤフーから想を得たある日本人によって、途轍もない未来幻想マゾヒズム小説が展開されることになる。

三島由紀夫、澁澤龍彦、大岡昇平、遠藤周作、曽野綾子らに衝撃を与えたこの小説は、恐るべき発想と空想力、そして衒学趣味に満ちた、秘密の書だ。あまりのすさまじさに内容を紹介するのは憚られるが、間違いなく、この世で最も恐ろしい奇書であると断言できる。自分の世界とは異なる世界を知ることに意義があるとしても、結婚前の女性は決してこの本を手にしてはいけない。

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第七官界彷徨』(尾崎翠著、河出文庫)は、何とも不思議な小説だ。「人間の第七官にひびくような詩」を書きたいと願っている赤い縮れ毛の娘と、精神科医の長兄、肥料を研究している学生の次兄、それに音楽受験生の従兄弟の4人が、廃屋の一つ屋根の下で暮らす日常が描かれている。苔が恋愛をしたり、部屋でこやしを調合して煮る臭いが漂ってきたり、名状し難い感覚の世界が広がっている。現実離れしていながら、妙に懐かしい世界なのだ。

林芙美子、太宰治など一部に熱烈なファンを持ちながら、文壇ではほとんど無名であった女流作家・尾崎翠が、近年見直されつつあるのは嬉しいことだ。

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ハーメルンの笛吹き男――伝説とその世界』(阿部謹也著、ちくま文庫)は、知的好奇心を満足させてくれる魅力的な本だ。子供の頃、グリム兄弟の『ハーメルンの笛吹き男』という童話を読んだ人は多いだろう。鼠の大群に襲われて困っていたハーメルンの町に、不思議な男が現れる。市民たちから報酬を約束されたこの男は、笛を吹いて町中の鼠どもを河まで連れていき、溺れさせてしまう。だが、鼠の災難を免れると、市民たちは男への報酬支払いを拒む。激しく怒った男は町を出ていくが、再び現れ、今度は笛を吹いて町中の子供たちを連れていき、子供たちもろとも山に消えてしまう。この童話の基となった、1284年6月26日に実際に起こった笛吹き男と130人の子供たちの失踪事件は、多くの謎に包まれている。

笛吹き男とは何者か。なぜ130人もの子供たちが失踪したのか。そして子供たちはいったいどこへ消え失せたのか。謎が一つ解かれるたびに、思いがけない歴史の真実が暴かれていく。この書は、私たちに知ることの喜びをたっぷりと味わわせてくれる。