榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

新しい日本語を作った男・上田万年と、敵役・鷗外、味方役・漱石との関係・・・【情熱的読書人間のないしょ話(376)】

【amazon 『日本語を作った男』 カスタマーレビュー 2016年5月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(376)

近所の垣根に一重で明るい赤色のバラが咲いています。その家の女主からコクテール(カクテル)という品種だと教わりました。私の好きな女優、ロミー・シュナイダーに捧げられた作品ということで、華麗でありながら清楚というところがシュナイダーにぴったりのバラです。シュナイダーがナチスから逃れる女を演じた『離愁』は、私の一番好きな映画です。散策中に、さまざまな品種の、いろいろな色のバラが咲き競っているところに出くわしました。因みに、本日の歩数は10,986でした。

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閑話休題、『日本語を作った男――上田万年とその時代』(山口謠司著、集英社インターナショナル)は、明治時代後半に始まった日本語の言文一致運動史を、主役・上田万年(かずとし)、敵役・森鴎外、味方役・夏目漱石という顔触れで生き生きと描き出しています。

「我々が使う現代日本語は、明治時代も後半、およそ1900年頃に作られた。いわゆる言文一致運動の産物である。自然に変化してこうなったものではなく、『作られた』日本語である。・・・言文一致はたったひとりでできるものではなかった。そして、政府や文部省などが押しつけてやっても、それだけでどうにかなるものでもなかった。政府や文部省のなかにも、今のままでいいという人もいたし、日本語を捨てて英語にしてしまえという人もいたのである」。こういう状況の中で、言文一致運動を主導したのは上田万年という、あまり知られていない人物でした。

万年は、言語学者、国語学者にして、東京帝国大学国語研究室初代主任教授で、弟子には『広辞苑』を編纂した新村出や金田一京助などがいます。作家・円地文子の父でもあります。

歴史的仮名遣いの遵守を主張して、万年の言文一致運動の前に大きく立ちはだかったのが鴎外であり、万年の主張を自分の小説の文体に取り入れたのが漱石だったというのです。「もし、こういう言い方が許されるのであれば、百年後にも読まれ続けている『吾輩ハ猫デアル』を漱石に書かせたのは、新しい日本語を創ろうとした言語学者・上田万年である。聡明な漱石は、『近代日本語』が公に向かって現れることを事前に知って、百年後にも読まれる文章を書くための準備をし、民衆に広くウケる『吾輩ハ猫デアル』をひっさげて現れた。そして、その裏方にいたのが、上田万年だった。万年なしに、『漱石』は生まれてこなかった」。

著者は、万年の肩を持つあまり、漱石には甘く、鷗外には辛辣なことが、鷗外ファンの私にはいささか不満です。「万年は、明治32(1899)年、文学博士の称号を授与され、これによって名実ともに、言語学者として、また言語学の立場から日本語を論じることの権威となったのである。ところで、博士という学位を持って明治の世を闊歩していた人に森林太郎・鷗外がある。明治24(1891)年に医学博士の学位を授与されて以来、鷗外は、また文筆家としても華々しい活動を行っていた。そして、万年とは明治35(1902)年以降、『国語調査委員』として顔を合わせることになる。万年とはうまくいくのか・・・鷗外は負けず嫌いで、人に論争をふっかけ、しつこく追い回すという癖を持っていた」。博士という学位を持つ人がまだ非常に珍しかった時代のことです。

一方、漱石については、こんなふうです。「漱石の作品がこれだけ教科書に採用されるとなれば、漱石の言葉が日本語に大きな影響を与えたことは十分に考えられるであろう」。「漱石の文体は、ほとんど、万年が望む言文一致体であった。当時より現代まで、漱石の文体は古びることなく、人々の心を掴んでいるのである」。

「明治41年、臨時仮名遣調査委員会で大演説をし、仮名遣い改正案を引っくり返した鷗外だったが、旧仮名遣いを主張した鷗外の文章は、年を負うごとに人気がなくなっていく。読み難いからである。これに対して、漱石の書くものは非常によく読まれるようになる。しかし、その漱石も後期三部作を書き終わると、もうまとまったものが書けなくなってしまう。ただ、漱石には、漱石の文体を引き継ぐような、『木曜会』にいた弟子たちが育っていた。漱石の教員時代の教え子や漱石を慕う若手文学者たちによる、漱石邸での毎週木曜日の集まりには、小宮豊隆、鈴木三重吉、森田草平はじめ内田百閒、野上弥生子、寺田寅彦、阿部次郎、安倍能成、芥川龍之介、久米正雄などが顔を出していた。彼らがその後の『日本語』を作っていく。そして鷗外も、大正に入って以降は次第に、『言文一致』に近い日本語で、小説を発表するようになっていく」。

昭和21年に当用漢字ならびに新仮名遣いの告示がなされたのは、万年が死去してから9年後のことでした。