榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

23歳の医学生・山田風太郎が見た昭和20年の真実・・・【情熱的読書人間のないしょ話(477)】

【amazon 『戦中派不戦日記』 カスタマーレビュー 2016年8月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(477)

敗戦の翌年、昭和21(1946)年7月に博多港で写された写真には、「幼い姉弟は復員船に父の姿をさがす」というキャプションが付けられています。この写真を見るたびに、切なさが込み上げてきて、二度と戦争のない国であってほしいと願わざるを得ません。

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戦中派不戦日記』(山田風太郎著、講談社文庫)を読んで感じたことが、3つあります。

第1は、その分量の多さです。23歳の医学生・山田誠也(風太郎)の手になる、昭和20(1945)年1年間の日記ですが、文庫の新装版で3cmもあります。第2は、戦争末期から敗戦直後に至る世情の移り変わりが生き生きと克明に綴られていることです。一庶民が、一青年が直に見て、感じて、記したものとして、当時をよりよく知るための貴重な記録と言えましょう。第3は、誰にも遠慮することなく、自分の心情が正直に吐露されていることです。「戦中派不戦日記」というタイトルは、山田が戦争反対者であったような印象を与えがちですが、そうではありません。敗戦までの山田は日本の勝利を願うごく普通の軍国青年だったのです。

2月21日(水)・晴午後曇の一節。「われらは死なん。死は怖れず。しかも日本の滅ぶるは耐え難し。白日の下悵然として首を垂れ、夜半独り黙然として想うは、ただ祖国の運命なり。自らの死生如何にあらず」。

3月10日(土)・晴、米軍の激しい空爆を受けての一節。「焦げた手拭いを頬かむりした中年の女が二人、ぼんやりと路傍に腰を下ろしていた。風が吹いて、しょんぼりした二人に、白い砂塵を吐きかけた。そのとき、女の一人がふと蒼空を仰いで、『ねえ・・・また、きっといいこともあるよ。・・・』と、呟いたのが聞えた。自分の心をその一瞬、電流のようなものが流れ過ぎた」。「黒焦げになった屍体が、いたるところに夏の日のトカゲみたいに転がっていた。真っ黒に焼けた母親のからだの下で、赤ん坊も真っ黒に焼けていた。加藤さんたちは、なんどもそれらの屍体につまずいたり、踏んだり、転んだりした。火の潮に追われて、人々は隅田川へ飛び込んだ。しかし隅田川も燃えていた。吹きつける火の雨に船は焼け、水は煮えていた。無数の人々がそこでも死んだ。屍体は今なおマグロのように無数に浮かんでいるという」。

4月19日(木)・曇の一節。「バルザック『絶対の探求』を読む。怖るべきかなオノレ・ド・バルザックの絶倫の精力、この作家の小説は、げに知力を以て読む以前にまず体力を以て読むを要す」。山田は、戦争中も戦後も国内外の文学作品に常に親しんでいます。

5月2日(水)・雨の一節。「ヒトラー総統ついに死せりとのニュース放送されたり。自殺か、戦死か、横死かいまだ判明せず。この大戦終焉ちかき号砲なるか。近来巨星しきりに堕つ。ヒトラーの死は予期の外にあらずといえども、吾らの心胸に実にいう能わざる感慨を起さずんばやまず、彼や実に英雄なりき!」。

8月16日(木)・晴・夜大雨一過の一節。「日本が負けた。嘘だ! いや、嘘ではない。・・・台湾、朝鮮、満州、樺太はもう日本のものではない。日清戦争、日露戦争、満州事変、支那事変、これらの戦役に流されたわが幾十万の将兵の鮮血はすべて空しいものであったのか」。

9月6日(木)・晴の一節。「大東亜戦争開始以来わが損耗数、発表。陸軍関係 4百96万6千(人)、海軍関係 15万8千751(人)」。

12月7日(金)・曇の一節。「新宿の薄曇の空の下に、国民学校の児童たちが、旗を持って、箱を首にぶらさげて、いたいけな声をはりあげて、『気の毒な戦争孤児を憐れんで下さあい。御同情をお願いしまあす』と、さけんでいる」。

12月24日(月)・晴の一節。「敗戦して、自由の時代が来た、と狂喜しているいわゆる文化人たちは、彼らが何と理屈をこねようと、本人は『死なずにすんだ』という極めて単純な歓喜に過ぎない」。

戦争の実態とはどういうものか、人々にどういう影響を与えるのか――を考えるとき、どうあっても外せない一冊です。