榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

辻邦生の芳醇な文章に酔い痴れる・・・【情熱的読書人間のないしょ話(934)】

【amazon 『黄金の時刻の滴り』 カスタマーレビュー 2017年11月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(934)

秋晴れの一日、上州路を巡ってきました。群馬・桐生の宝徳寺の本堂の磨き込まれた床に映る「床もみじ」に目を瞠りました。渡良瀬川沿いの高津戸峡は秋色に包まれています。大間々から神戸(ごうど)までわたらせ渓谷鐡道列車に乗りました。草木湖を囲む山々も紅葉で彩られています。栃木・佐野の出流原弁天池の神秘的な美しさに息を呑みました。因みに、本日の歩数は13,288でした。

閑話休題、短篇集『黄金の時刻(とき)の滴り』(辻邦生著、講談社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、著者が私淑する小説家、詩人たちとの架空会見記です。

辻邦生は現代作家の中で私の一番好きな作家ですが、本書の至る所で、彼の芳醇な文章に酔い痴れることができます。

ウィリアム・サマセット・モームに対するオマージュというべき「丘の上の家」では、こういう文章に出会えます。

「『小説家はただ書くことが楽しいのだ。それですでに十分報われている。スタンダールを見給え。<赤と黒>という傑作は一年かかって三十部しか売れなかった。本屋のほうが驚いたくらいだ。だが、本人はすこしもへこたれていないで<五十年早く書きすぎたんだ。五十年たつとベストセラーになる>と平然とうそぶいていた。そうしたらどうだ、それが本当になった。生きてる間売れなかったが、本人は平気でせっせと恋人を作り、書くことを楽しんでいた。ぼくとスタンダールを結びつける批評家なんておらんがね、ぼく自身は書くことが楽しいし、楽しいことを書く。それだけだ』」。

「『小説は楽しみのために読むのだ。もちろん楽しみといってもいろいろある。現代人は楽しみというと、大抵低俗な娯楽のことを考える。だが、世の中には精神の楽しみもある。小説はそのために書かれる。そのためにだけ書かれるといっていい』」。

フランツ・カフカが登場する「黄昏の門を過ぎて」には、こういう一節があります。

「『ちょっとスラブ風の、淡い金髪で、淡青い眼の、ぬけるように白い美女たちに何人も出逢いました。現にホテルの受付にいる女は、一種猫のような、しなやかな動作の持ち主で、ペンを執ったり、キーを差し出したりすると、猫が手で額をこする動作を思わせます』」。

「『私は、その分身が、私のひそかな欲望をやってのけているのではないか、と思うことがあるんです。君はがっかりするかもしれないけれど、私も、分身と同じように、きっと下劣な人間になり、下劣なことをしたがっているのかもしれません』」。

スタンダールとの会話が展開される「黄金の時刻の滴り」は、こんな具合です。

「ナンニーはミラノの社交界では、その美貌だけではなく、頭の廻転の早さでも人気があった。ナンニーは陰気な、重苦しい気分が嫌いで、すこしでも真面目な、難しい話題になると、わざと、前後の脈絡のない滑稽なゴシップを話してみんなを笑わせた。彼女は、人生が陽気で、楽しみに熱中できるだけ、それだけ生きる値打ちがあると信じていた」。

「『(貴族と市民の)両方とも現在(いま)というこの<黄金の時刻(とき)>を生きることができないのです。それができるのは情熱に生き、愛を信じ、自由を人生最高の悦楽と感じられる人だけです。過去の鎖からも未来の織からも解放された人間だけです』」。

「『地位も財産も考えず(それは過去に生きることだから)、節約も投資も考えず(それは未来に身を置くことだから)、ただ恋の喜びのなかに生きるように生き、嬉しさ、快活さ、明るさ、気どりのなさ、楽しさに酔っていること――それが現在の<黄金の時刻>を生きるしるしでしょう』」。

「『ぼくにはあのひとがいる――そう思うだけで、空から花がいっぱいに降りそそぐような気持になるのです』」。

「青空の彼方へ」の中に配置されたヴォルフガング・フォン・ゲーテの長い手紙には、こう書かれています。

「『男は女のためにいつでも戦おうと本気で生きている。女も男のためにすべてを棄てるつもりでいる。男も裸なら女も裸である。傷つくことは多いが、偽善者めいた僧侶みたいな顔を見ないですむ』」。

「『この若い女たちの匂うような美しさは、花が咲くときと同じく、生命が、肉体のなかにじかに姿を現わしたものなのである。生命とは本来こうした若さ、強さ、明るさ、躍動感、上機嫌といった性格のものだ。だから、それが直接現われるとき、花なら咲き初めの香わしい純粋な花びらの薄さ、透明さ、あえかな果敢なさとなる。若い女たちの美しさは、永遠の生命のめぐりが、一瞬その肉体を借りて、地上に現われたものだから、その瞬間が過ぎれば、もう二度とその顔かたちには現われることはない。そのあとに現われるのは、知恵の美、性格の美、学識の美であるかもしれないが、この生命の輝きではない。生命は、次の若い娘たちの肉体を通して、また地上に姿を現わすのだ、花が散っては咲き、咲いては散るように』」。

「『ぼくはぼろを纏った農婦がこんな堂々とした、熟れた、芳醇な果実のように美しいと思ったことはない。崩れたローマの城壁の残骸、闘技場遺跡の石の白さ、夏草の茂み、乾いた石の上を素早く走るとかげ――ここには過去もなく、未来もない。輝かしい現在(いま)があるだけだ。友よ。ぼくは現在の面に現われた生命の祭典に、息をはずませ、のめりこんでいるのである』」。

辻の輝く生命観を堪能することができました。