榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

江戸中期、仙台藩の下級武士が42年間、綴った日記から見えてくるもの・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1772)】

【amazon 『下級武士の田舎暮らしの日記』 カスタマーレビュー 2020年2月20日】 情熱的読書人間のないしょ話(1772)

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閑話休題、『下級武士の田舎暮らし日記――奉公・金策・獣害対策』(支倉清・支倉紀代美著、築地書館)は、江戸時代中期、仙台藩御鳥見役(鷹狩の世話役)として農村で暮らす下級藩士、矢嶋喜太夫が42年に亘り書き溜めた日記『二樅亭見聞録』を読み解いています。

「矢嶋喜太夫は下級とはいえ伊達家直臣ですから武士として強烈なプライドを持っていました。彼は下から目線で記録を残したわけではありません。しかしそのことも含めて村の実態を知る貴重な史料であることに変わりはありません」。

猪による農作物の被害に悩む喜太夫たちは、毎年、鉄砲使用の許可を役人に願い出るが、許可はなかなか得られません。「(願書で)『鉄砲の使用はやむを得ないことと存じます』と述べているが、この記述は『給人(=地元在住の武士)衆が鉄砲を撃つことには問題がある』という役人への反論であろう。現実に起きている猪の被害に目をつむり、何事も『古格古例の則り』処理しようとする行政への抵抗と考えられる。石巻代官所管轄の蛇田村と合同で作成された願書だった関係からか、広渕代官所では自分のところで判断せずに、仙台の御野場奉行衆まで報告を上げ、対応を協議している」。

「2月22日から25日まで4日間の狩猟の様子である。矢嶋喜太夫は役目柄、どこで(場所)、何が(鳥の種類)何羽獲れたかを中心に記録している。狩は『藩主組』と『御兎所組』と『御鷹組』の3組に分かれて実施されたようである。25日、藩主(伊達)吉村は15、御兎所組と御鷹組が獲った分を合わせて31。この記録だけでははっきりしないが、他の記録も総合すると、吉村は鉄砲で水鳥を専門に狙ったようである。藩主には重役たちのほか御申次田村左覚などたくさんの家臣が随行した。喜太夫は藩主の案内役で、しかも御昼所を仰せつかり、人生で一番の晴れ舞台であった。御昼御膳には殊のほか気を遣ったようで、一品一品料理を書き出している。次回のための記録としても書き残す必要があったのだろう。矢嶋家は屋敷が広大で、水田地帯の中の小高い丘の上にあり眺望が素晴らしいので、冬鳥の狩猟のとき休憩地として最適の場所である。この後も吉村は何度か矢嶋家を御昼所として訪れることになる。4日間案内役をつとめる中で、喜太夫は一度も藩主と直接には言葉を交わしていないと思われる。すべて御申次や御小姓を通じてのやりとりであろう。しかし吉村が『喜太夫の身代はどれくらいか』と尋ねていることに注目したい。このとき吉村は喜太夫に個人的な関心を持ったのだ。喜太夫にはこの日の出来事が特別に名誉なことと感じられた。『後代にこの喜悦を聞かせるためにここに記し置く者なり』と気負った文で締めくくっている」。

11年後の狩では、「喜太夫は藩主が須江村に近い和渕村まで来たので、ご機嫌伺いに参上した。そのとき『喜太夫も出居ったか』と直接声をかけてもらい、『有り難き仕合わせ、冥加至極』と天にも昇る気持ちになった。藩主吉村は喜太夫の名前を覚えてくれたようである」。

その翌年の狩で、喜太夫は案内役を務めます。「屋形様は喜太夫から挨拶されてすぐに『喜太夫、久しいな。息災にいたか。久しくつとめるな。鳥はいたか』と声をかけてくれた。喜太夫も張り切って案内をつとめた。その甲斐あって藩主は2番の真鴈を仕留めた」。吉村は狩猟を通じて、在地の武士と交流を図り、信頼関係を深めたのだと、著者は付記しています。

「この記録は、享保9(1724)年2月に幕府から出た物価引下げ令を筆写したもの。『見聞録』の前後の記録から判断して、2月に出た幕府法令が4月中旬に須江村まで伝達されたようだ。・・・『米穀が下直になっても諸物価が下げないのは、過分の利徳を得ようとする』ものだと道徳論まで展開するのだが、実効が上がらなかったのは当然である」。

「喜太夫は幕藩体制を絶対のものとして受け入れ、自分がその体制を支える一人であることに強烈な誇りを感じていた」。

「五代藩主吉村は財政再建に成功し、のちに『中興の英主』といわれた」。

当時、天下を騒がせた天一坊事件のことも記されています。「天一坊事件は、源氏坊天一と名乗る修験者が将軍徳川吉宗の落胤を詐称して町人などから金品をだまし取った事件である。天一坊は享保14(1729)年4月21日に処刑された。喜太夫は同年5月末頃その情報に接し、記録した」。

筆まめな喜太夫のおかげで、私たちは江戸中期の村の実態を臨場感豊かに知ることができるのです。