榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

本書によって、私の足利義満観が大きく覆されてしまいました・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1812)】

【amazon 『足利義満――公武に君臨した室町将軍』 カスタマーレビュー 2020年3月30日】 情熱的読書人間のないしょ話(1812)

サクラには、さまざまな園芸品種があります。ベニユタカ(紅豊)、チョウシュウヒザクラ(長州緋桜)、ケンロクエンクマガイ(兼六園熊谷)、イヨウスズミ(伊予薄墨)、ゴシンザクラ(御信桜)、エイゲンジ(永源寺)、ヒヨシザクラ(日吉桜)、チハラザクラ(千原桜)、ササベザクラ(笹部桜)、ハクサンハタザクラ(白山旗桜)、オオヂョウチン(大提灯)、アマヤドリ(雨宿)をカメラに収めました。因みに、本日の歩数は10,457でした。

閑話休題、『足利義満――公武に君臨した室町将軍』(小川剛生著、中公新書)は、私がこれまで抱いてきた足利義満観を大きく覆してしまいました。

その第1は、義満は、仕事、勉強、遊びなど、何事にも積極的かつ行動的な人物であったこと。

第2は、義満は、皇位を奪おうとしたどころか、朝廷の公家として振る舞うことに快感を覚えていたこと。

「古くから『義満の公家化』という現象が指摘される。すなわち、単に公家の文化に憧憬の念を抱いたのではなく、自らも学問・藝能の広い領域に通じ、演じられる場に身を置くことを好み、時に主催し監督したのである。その遊覧好きは有名であったが、これもいわば自らの権力を効果的に演出するのに長けていたためである。実際、室町殿(=義満)ほど、権力と文化との相関関係を顕著に示す存在は他にはいない。こうした義満の方策は、20歳前後から身につけた、公家の教養が土台となっている。その教養とは、朝廷の儀式に参仕してこれを主宰する能力・知識(狭義の有職故実)を基盤に、儒学、和歌、蹴鞠、音楽その他の藝道で構成されるが、義満はこれらを驚くほど短期間でマスターし、完全に公家となりきって、その時代の文化の司祭となった。公家の制度や文物は過去の遺物であるが、室町時代に新たな意味を見出されて文字通りの古典として再生した」。

「義満は、それ以前の武家政権の首長と異なり、公家社会に帰属して、時に院、時に摂関の役割を肩代わりしていたと言えるのである。もちろん、室町殿は、院政期の上皇、あるいは摂関期の摂政・関白そのままではない。鎌倉幕府以来の武家政権の首長として、独自の統治のステムと支配の伝統を培ってきている。しかしながら、武家昇晋年譜を眺める時、『征夷大将軍』を離れた、新たな権力者の誕生を認めた方がよかろう」。

世阿弥が登場します。「(1378年の祇園祭を見物した時)15歳の大和猿楽の童を連れて桟敷に上った。いうまでもなく若き日の世阿弥であり、当時は藤若と称していた。・・・義満が自分にふさわしい愛玩物として、美麗の寵童を世間に見せつけ、その効果が十分過ぎるほどであったことをはからずも示している」。

第3は、明の皇帝に対して、義満が「日本国王」と名乗ったのは、天皇に代わり国を代表しようなどという大それた意図があったわけではなく、明との交易を求める過程での行きがかり上の出来事であったこと。

「(1402年)義満は北山第で明の使者、禅僧天倫道彝と天台僧一庵一如に対面し、建文帝の詔書を拝領した。明との通交は、現在いかなる通史でも、義満の政治的業績として特筆大書される。・・・義満が求めたのは一にも二にも貿易の許可であった。大陸との貿易は巨万の富をもたらし・・・明の皇帝から(返書の中で)『日本国王』と呼びかけられ、『冊封』を受けたことで、義満の政治的地位に何らかの影響があったかと問われれば、否と言わざるを得ない。つまり国内向けに『日本国王』を称したことはなく、廷臣も大名も『日本国王』として意識したこともない」。すなわち、明の皇帝の返書の中で、たまたま「日本国王」と呼ばれたので、義満としては、それ以降は、敢えて否定はせずに「日本国王」という号を使用したに過ぎず、義満の目的はあくまで経済的なもので、政治的なものではなかったというのです。

著者の見解はいずれも、同時代史料に基づいているだけに、説得力があります。