榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

自分も一遍たちと一緒に踊っている感じで、体も心も躍動してくる一冊・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1851)】

【amazon 『死してなお踊れ 一遍上人伝』 カスタマーレビュー 2020年5月8日】 情熱的読書人間のないしょ話(1851)

この愛用のパソコンから、連日、原稿が誕生しています。原稿を1つ書き上げたので、さあ、散策へ。素早く動き回る10羽ほどのオナガの群れに、久しぶりに出くわしました。ヤマボウシの白い総苞、ベニバナヤマボウシの赤みを帯びてきた総苞が目を惹きます。ハクウンボクが白い花を咲かせています。黄色い花を付けているキンランを、女房が見つけました。因みに、本日の歩数は12,323でした。

閑話休題、池澤夏樹の書評集『いつだって読むのは目の前の一冊なのだ』(池澤夏樹著、作品社)に唆されて、『死してなお踊れ 一遍上人伝』(栗原康著、河出書房新社)を手にしました。

本書は、鎌倉時代の僧で、「踊り念仏」で知られる一遍の評伝だが、自分も一遍たちと一緒に踊っている感じで、体も心も躍動してきて、一気に読み通してしまいました。

一遍自身が、念仏について、こう述べています。「<念仏のこころがまえをおしえてくれときかれたので、こたえておこう。南無阿弥陀仏ということ以外に、とくにこころがまえなんてありはしない。また、そのほかになにか悟りの境地があるわけでもない。いろんな知識人がおしえを説いているが、どれも重要じゃない。念仏をする者は、そんなものうち捨てて、ただひたすら念仏をとなえていればいいのである。むかし、空也上人があるひとに、念仏はどうとなえればいいんですかときかれて、こうこたえたという。捨ててこそ。それ以外、なにもいわなかったと西行法師の『撰集抄』にかかれている。これ、まさに金言である。念仏をとなえる者は、知恵も愚痴もすて、善悪の境界もすて、貴賤高下の区別をもすて、地獄をおそれるこころもすて、極楽往生をねがうこころもすて、諸宗派のいう悟りの境地もすて、いっさいのことをすててしまって、ただ念仏をとなえていればいい。それが阿弥陀仏の本願にもっともかなっているのだ>」。一遍は、空也を「わが先達なり」と、深く尊敬していました。

「とにかく人間社会というのは善悪優劣の尺度をたちあげてしまうものだ。ほんとうはそんなの、はじめから武力にたけていたり、金持ちだったり、あたまがよかったりする連中が、自分たちに都合のよいように、勝手につくってしまっただけなのに、それにしたがって必死に生きていると、いつのまにかそのなかで評価されなくちゃいけないとおもわされてしまう。おちこぼれをさげすみ、オレはもっとできる、もっとがんばらなきゃ、もっと出世しなくちゃ、もっとひとをけおとさなくちゃいけないと、そうおもわされてしまうのだ。でも、一遍はそれじゃダメだというのである。いきぐるしい。いちどこの社会の地位だの、名誉だの、ひとをはかりにかける物差しなんて捨ててしまおう。はじめからいっちゃいけないことなんてない、やっちゃいけないことなんてない。山にはいってもいい、川にはいってもいい、海にでてもいい。だれがどこでどんなふうに食いぶちをつくり、ひとと交わり、ケンカしたり、遊んだりしたところで、ひとの勝手だ」。

「一遍はこの(念仏は仏であるという)ことを和歌にして、つぎのようにうたっている。<となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏ぶつなむあみだ仏>。これ、あたまで考えているだけじゃわかりにくいかもしれないが、じっさいにやってみるとすぐにわかる。なむあみだぶつ、なむあみだぶつ。ひたすら高速でとなえまくっていると、その声が自分なのか、そうじゃないのかもわからなくなってしまう。しかもそれをたかく、たかく、もっとたかく、自分の限界をこえて、されにたかく、たかくうたいあげていると、もはや人間じゃないような声になってくる。いけ、いけ、往け、往け。こころが、体が躍動していく。そのことばで、声で実感するのだ。ああ、自分をこえた、人間をこえた、仏になったと。そして、その声がさらに外にひろがって、まわりにも仏になれといざないはじめる。いけ、いけ、往け、往け。オレも、おまえも、きみも、あなたも。一遍は、このことをつぎのようにいっている。<おのれの身を捨てさって、ただ南無阿弥陀仏とひとつになることを一心不乱という。では、われわれが『なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』とくりかえしてしまうのはなぜなのか。こういっておこう。念仏が念仏をもうすなり>」。

「アミダの慈悲は、すでにつねにわたしたちの身のまわりにあふれている。一遍は、それをあらためて確信したのだ。他人がどうおもうかじゃない。おまえがどうおもうかだ、どううごくかだ。おまえがやれ、おまえがやれ、おまえが舵をとれ」。

「なんだかみていてたのしそうだ。気づけば、みんなもあおられて、われもわれもど輪にはいってくる。武士も庶民も女房も、ピョンピョンはねてクルッとまわる。『一遍聖絵』をみると、みんな恍惚とした表情をうかべているから、よっぽどたのしかったんじゃないだろうか。大成功。とまあ、これが一遍たちの踊り念仏のはじまりだ」。

一遍の思想と行動は、知れば知るほど、私たちを元気にしてくれます。