赤穂浪士事件には48人目の忠臣、それも女性がいたという仮説・・・【情熱的読書人間のないしょ話(82)】
散策の途中で、陶器市を覗きました。私は日本茶が大好きで、一日に何杯も飲んでいます。各地の陶器市で求めた「茶」「青」「空」「白」「竹」「ざら」「つる」「薄」「萩」「益子」「高遠」といった愛称で呼んでいる茶碗を一日交替で使用しています。なお、自作の「覗き」は、得体の知れない生物2匹が縁から覗き込んでいます。この季節は新茶の香りと味わいを楽しんでいます。因みに、本日の歩数は16,634でした。
閑話休題、『四十八人目の忠臣』(諸田玲子著、集英社文庫)は、赤穂浪士事件には世に知られていない48人目の忠臣、それも女性がいたという、諸田らしい捻りの利いた小説です。
赤穂浅野家藩主・浅野長矩の正室・阿久利の侍女・きよが、赤穂浪士事件の後、5代将軍・徳川綱吉の甥・綱豊の屋敷に奉公に上がり、やがて側室・喜世となり、浪士らの遺児の赦免と浅野家再興に力を尽くしたというのです。この女性は、後の7代将軍・家継の生母・月光院ですが、彼女は、女でなければできない、女だからできること、すなわち、女体を使って彼女の忠義の誓いを貫いたというのです。
「町方育ち、それも琴や踊りの才を買われて奥づとめにあがったきよは身が軽い。ものおじせず、はきはき話すところが、あるじ(阿久利。後の瑤泉院)から気に入られている」。
「『わたくしをお殿さま(長矩)奥方さま(阿久利)のご無念をお晴らしする同志、とおおもいください。・・・わたくしもなすべきことをいたします』。このとき、きよは自分の心に引導をわたした。すると、なにをなすべきか、はっきりみえてきた。忠義をつらぬくことだ。そのためには――」。
浪士たちの切腹から1年1か月後、19歳のきよは徳川綱豊の屋敷に奉公に上がります。
「江戸城大奥のならいとおなじで、綱豊公のお手がついても女中は女中、子を産んでお腹(はら)さまにならなければ、身分の低い女が側室の地位にのぼることはめったにない」。「きよがはじめて綱豊公から声をかけられたのは、4月の半ば、桜田御殿へ奉公してひと月ほどたった初夏の夕べである」。「大名家へあがるというのは、そういうことだった。だれもがお腹さまになって出世する夢を描いている。漠然とではあったが、きよもかんがえなかったわけではない。とはいえ、実際に、白羽の矢が立ってみると――」。「入浴をして身を清め、白い帷子をまとう。髪はおすべらかしにして、ほんのり寝化粧でよそおう。・・・動悸をしずめ、きよは閨(ねや)へむかった」。
「宝永元年(1704)12月5日、綱豊公は将軍の養子となった。江戸城西の丸へはいって、諱を家宣とあらためる」。
「7月3日、きよは鍋松を出産した。家宣公は5月に(6代)将軍宣下式を終え、鍋松は将軍の次男となった」。「鍋松を出産したきよがただひとつ、褒美として家宣公にねだったものこそ、赤穂浅野家の再興だった」。
著者が、後書きで、「月光院と赤穂浅野家とのつながりについては疑問視する説もあるが、月光院が浅野内匠頭の後室に進物を贈りつづけていた事実や、ゆかりの寺に伝わる逸話、藩の分限帳の名などつき合わせれば、荒唐無稽な話とも思えない。これを前提に考えれば、きよが桜田御殿へあがったいきさつや、赤穂浅野家の再興が成ったわけも腑に落ちてくる。待望の男児を産んだ女が褒美に嘆願を許されるのは歴史上よくある話で、月光院が旧主のためにひと役買ったという設定も、あながち穿ちすぎではないと思う」と述べていますが、著者の言い分を信じたくなってしまいました。