中国の儒学を日本の儒学へと変貌させた徳川光圀、荻生徂徠、伊藤仁斎、熊沢蕃山・・・【情熱の本箱(384)】
『言語論――はねをもつことば(新版)』(高橋秀元・下川好美著、キイロブックストア)は、著者二人の対談形式で、さまざまな角度から言語が論じられているが、とりわけ興味深いのは「江戸言語論」である。
●中国の南北朝時代のころから、倭人は呉の太伯の子孫の一族だという説が広まり、『梁書』の「東夷伝」なんかでも言及され、17世紀の李氏朝鮮の史書にも、この説が採用されていたんです。これは日本にとって、ある意味で江戸幕府に好都合だったんですね。孔子が仁義の人と評価する太伯とその一族が日本の天皇家と日本人になって、弟の李歴が周の文王になり、文王の子の武王が天下統一して、孔子が模範とする周王朝をたてた。これなら日本人も尊敬されると、羅山などの朱子学は考えたんだな。
●幕府の林家朱子学と水戸光圀の朱子学は、同じ朱子学なのに、編集方針によって、ずいぶんちがったものになったんですね。●そうだね。朱舜水の教えを受けた青年、安積澹泊が元禄6(1693)年、「彰考館」の二代総裁となって、『大日本史』の骨格を完成したんですね。安積澹泊は名前が覚兵衛で、三代総裁となったのが佐々宗淳で、その名は介三郎なんです。●ああ、それが格さん、助さんなんですね。
●(貝原益軒の)ベストセラーに人間は死ぬまで性交渉できるのが幸せと説いた『養生訓』がある。中国医学を集大成した上で、一般人にわかりやすい日本語で書いた。これはいわゆる健康モノの出版物の走りで、84歳のとき完成したんですね(笑)。
●孟子は国家が子供に両親を養えなくなるような状況を出現させるなら、革命をおこすべきだと発言していて、これが中国の革命論の基礎となっているわけです。つまり、孝行ということがとても大切なことで、孝行できるかどうかということを国家、為政者の良し悪しの判定基準としたわけです。ところが、こんな革命論は日本には受け入れにくかった。これがなかなか浸透しなかった大きな理由の一つです。●ええっ、そうなんですか。儒学が革命論だなんて、あまり知られていないですね。それに親への孝行ができるかどうかが国家を判定する基準になっているなんて驚きです。●これは中国人にとっては常識で、だからこそ王朝は腐敗すれば農民一揆などで倒され、新しい王朝が立てられるわけです。
●(儒学を開いた孔子の考えは)「鬼神は敬して遠ざける」というわけだね。宇宙に神秘的なことはたくさんあるかも知れないが、そんなことをいくら考えたってしかたがない。動乱や戦争や自然災害がおこるかもしれないなら、そういうことに対処できる国家をつくった方が現実的だというわけだな。
●明から清への王朝交替が示すように、農民反乱など動乱の中で実力闘争に勝ち抜いて天命を受けたと称する統一者が皇帝になるという儒学的革命説を受け入れるかどうか。徳川氏が日本国王になったら、どうなのか。天才とうたわれた山鹿素行が議論の口火を切ったんです。●吉良邸に討ち入るときにうちならした「山鹿流陣太鼓」で知られる兵学者ですね。●問題は、徳川政権の日本が独立した国家、もっというなら、中華体制や今でいったらアメリカ体制の国際主義に対して、日本の存在理由を考えてしまったんです。これが山鹿素行を不幸にしたんですね(笑)。●それで山鹿素行は日本が存在しなくてはならない理由を、何に求めたのですか。●まぁ、聖人が示す正義を実行する仕組みじゃなきゃ、そんな国家は存在価値がないと考えたのさ。・・・素行はいわば自由思想家の立場に立ち、「古学」という考え方を提唱した。これが林羅山の怒りを買ったんです。・・・(素行の)研究は幕府の朱子学からすれば、逸脱している。そればかりか、のうのうと年貢で暮らすだけの武士にも文句をつけたので、赤穂にお預けになった。
●山鹿素行の思想は、明治維新の思想に大きな影響をおよぼすことになったんです。長州の松下村塾の創始者、玉木文之進は山鹿素行の『中朝事実』を講義して、吉田松陰が山鹿流軍学を長州の若者に浸透させました。幕府が危惧したとおり、身分の低い武士たちが立ち上がって、明治維新を実現する大きな思想的バックボーンになったんです。
●落語にまで登場する哲学者なんて、徂徠は江戸庶民から愛されていたんですね。●うん。その落語でも語られるんですが、増上寺の了也大僧正が不思議な若者が向かいの豆腐屋の小部屋を借りて儒学の講義をしているのを窓ごしに聴いてみると斬新な解釈にみちあふれていた。そこで了也が柳沢吉保に紹介し、将軍綱吉に気に入られて出世したというんだね。徂徠の考え方というのは、落語の『徂徠豆腐』が指摘するように、「情」と「法」は相補的に融通することができるということなんです。つまりは「情」が基本にあって、それでどうにもならないときは「法」で裁く。・・・荻生徂徠や伊藤仁斎は中国の儒学を日本の儒学へと変貌させたんです。
●(熊沢蕃山の政策は)徹底した政治と教育の一致政策さ。中江藤樹先生が村里の人々に「致良知」を自覚させることで、大きな成果を挙げるのを目の当たりにしていた助右衛門(蕃山)は、それを岡山で実践するんだな。人間が生まれながらにもっている無垢で、私心や慣習、身分などにまみれない発言ができ、それぞれが工夫をこらして言ったことを実践できるようにする。すると、みんな喜んで働き、地域の生産力はアップし、衣食足りて礼節を知るようになり、災害などの緊急時も協力体制で乗りきれるというわけさ。・・・(「花園盟約」の)会約に、蕃山は女性にも学問が必要だとして、男女平等、身分差別なし、他藩からの入校も認める学校構想を示したんです。・・・吉田松陰もその(蕃山の著書の)影響を受けたんです。勝海舟もたびたび蕃山に習おうとした。彼らが朱子学的な攘夷から、蕃山が唱えた開国論へ転換したのは大きかった。●水戸黄門から徂徠、仁斎、蕃山まで、みんな儒学で日本を発見していったんですね。
なるほど、そういうわけだったのかと、目から鱗が落ちることばかりである。