鎌倉仏教の知的冒険者たちが目指したもの――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その66)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(153)】
●『鎌倉仏教』(佐藤弘夫著、ちくま学芸文庫)
なぜ平安時代末期から鎌倉時代にかけて優れた宗教者が輩出したのか、長らく不思議に思っていたが、『鎌倉仏教』(佐藤弘夫著、ちくま学芸文庫)が疑問を晴らしてくれた。
鎌倉仏教を代表する法然、親鸞、道元、日蓮に焦点を当て、それぞれの思想の特質と彼らの共通点を追究しているが、著者の論旨は明快で、実に分かり易い。「彼らはみな、思想家である前に実践者であった。彼らは象牙の塔に閉じ籠って、体系的でほころびのない思想を構築することを最終的な目的とは考えなかった。宗教や思想は、所詮みずからが救われ、人が救われるための手段にすぎない。思想は実践の中で鍛えみがかれて、はじめて生命を吹き込まれるのである。鎌倉仏教の祖師たちもまた、日々の民衆との接触の中で、一歩一歩その思想を彫琢していったのである」。
著者は、彼らの思想に見られる論理の矛盾や解釈の飛躍に着目している。「その論理の裂け目の間に、実践者としての彼らの苦悩と思索の足跡を、宗教家としてのその誇りと輝きを見出した」。論理の飛躍があったからこそ、人々に強い衝撃を与えることができたというのだ。
「鎌倉仏教が真に『民衆仏教』としての名に値するなら、それが民衆にどのように受け容れられ、その精神と肉体の解放にいかなる具体的な役割を果たしたのか」、「祖師の思想はいかに立派なものであっても、それ自体では何の意味もない。それは、名もなき人々に受容され彼らの心に希望の灯をともして、はじめて宗教としての生命が吹きこまれる」という問題意識の下に、法然、親鸞、道元、日蓮の思想と行動が吟味されていく。
「法然の心の中ではあるひとつの疑問が首をもたげはじめた。それは、念仏を唱えることによって本当に浄土に往生できるのかという疑念であった」。「口に南無阿弥陀仏と称えるだけで往生できるとする立場を『専修念仏』という。専修念仏の理論的根拠を見出そうとして、法然は膨大な典籍の山にとりくんでいったのである」。やがて、法然はこう悟るのである。「口に念仏を称えることはだれにでもできるやさしい行である。ところが他の行ではそうはいかない。難しいため実践できない人もいる。だから弥陀はすべての人を救済するために、いちばんやさしい行(易行)である念仏を選んだのだ」と。念仏は弥陀が与えてくれた唯一最高の極楽行きのパスポートだというのだ。
念仏だけを唯一の極楽往生の行とし、他の行の価値を公然と否定する法然の主張が、いかに革命的なものであったか。「法然の教えを受け継ぎながらも、伝統仏教者や権力者に対し、より厳しい批判の論理をとぎすましたのがその弟子親鸞であった」。法然は浄土宗の開祖、親鸞は浄土真宗の開祖とされているが、「親鸞にとって法然は、地獄までもつき従うべき絶対の師であった。その親鸞が法然の教えを不完全なものと考えたりすることはあるはずもない。まして師の教えに飽き足らずに新しい宗派を開くなどということは、絶対にありえないことであった。したがって、親鸞自身にとっては法然と死別した後の新たな宗教的境地の開拓は、法然を越えることではなく、測り知れない奥行きをもつ法然の精神世界を追体験することであった。みずからの信仰体験が深まりゆくことがとりもなおさず親鸞にとっては、『弥陀の化身』であった法然に一歩一歩近づくことにほかならなかったのである」。
ただし、両者の間には、微妙なニュアンスの差があった。「法然の場合、伝統仏教を否定する言葉にはやや曖昧さがつきまとっていた。ところが親鸞では、既成の教行が全く無価値であることがはっきりと断言されるのである」。親鸞の自己を見詰める眼差しの厳しさ、現実否定の強烈さは、法然をさらに上回っていたのである。「偽善を憎み日々尊い汗を流す民衆に光をあてようとした親鸞は、ついに彼らの日常生活そのものを全面的に肯定する論理を生み出した。いまや民衆はだれにもはばかることなくみずからの生業に従事しながら、仏の光に照らされていることを確信できた。たとえ外面は罪深い生活を送ろうとも、彼らの内なる生命には仏から分かち与えられた真実の信心の命が脈打っていた」。この認識が「悪人正機」の根底にあるのだ。
日蓮は法然より90年、親鸞からは50年のちの人であるが、「法然の専修念仏に対して激しい攻撃を加えるのである。しかしそれにもかかわらず、完成された日蓮の宗教体系には、彼が不倶戴天の敵とみていた法然や親鸞と共通する特色を見出すことができるのである」。「日蓮の特色は『法華経』以前に説かれた諸経典を、いまだに釈迦の悟りの真相を説き切っていない有害無益の方便権経(かりの教え)として、その価値を全面的に否定した点にあった。・・・日蓮の解釈の独自性はこれだけに留まらない。彼は『法華経』を信ずる人々が行うべき実践としては、末法の時代では経の題目(南無妙法蓮華経)を唱えるだけでよいと断言した」。日蓮にとっては、釈迦は弥陀・薬師・大日といった数多くの仏のうちの一つではなく、他のいかなる仏とも比較を絶する唯一無二の救済主であったのである。
道元に代表される禅宗が、「専修念仏や日蓮と決定的に異なる点は、外在して人間に対峙するようなタイプの仏の存在を認めないところにあった。彼らにとって仏とは自己の心中に内在する仏性(仏の種)の謂にほかならず、坐禅によってそれを発見し顕現すること(見性成仏)こそが修行の究極の目的であった。このような立場をとる限り、親鸞のように外在的超越神を立てて俗権に対する宗教的権威の優越を説いたり、仏の権威に照らして支配者の権力を批判したりすることは不可能といわざるをえない」。しかしながら、「法然・親鸞の『仏』に対して道元の『(仏)法』という相違はあっても、地上の権威を越える超越的規範を掲げ、前者に対する後者の絶対的優位を主張する点において、両者は同じ地平に到達していたのである」。「念仏以外では往生できない」(法然、親鸞)、「題目でしか救われない」(日蓮)、「成仏の道は坐禅だけだ(只管打坐)」(道元)――彼らが創造したのは、このような極めて排他的な信仰体系であった。
法然、親鸞、道元、日蓮は、民衆を救うにはこの方法しかないと大胆に主張し、生涯を懸けて果敢に戦った知的冒険者たちだったのである。