砂の穴の底の一軒家に閉じ込められた男の運命――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その147)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(234)】
●『砂の女』(安部公房著、新潮文庫)
私は、よく夢を見る。と言っても、将来、実現させたい「夢」ではなく、睡眠中に現れる「夢」である。私の夢にはいくつかのパターンがあるが、一番多いのは、どこか知らない土地に行ったのはいいが帰り方が分からず、いろいろ試みるがどうにもならず途方に暮れるというものである。何らかの解決法を思いつけばいいのに、夢の中の私は全く以て無力・無策なのだから、嫌になってしまう。
初めて『砂の女』(安部公房著、新潮文庫)を読んだ時、この私の夢と同じような感覚を覚えた。主人公の「男」が置かれた境遇と行動が、夢の中の私のそれとあまりにも似ていたからである。
砂丘に新種の昆虫を探しに出かけた男が、蟻地獄の巣のような砂穴の底に埋もれそうな一軒家に閉じ込められてしまう。あらゆる方法で脱出を試みる男。その家が埋もれてしまわないように、常に砂を穴の外に掻き出す人手として、男を穴の中に引きとめておこうと必死な女。そして、穴の上から男の逃亡を監視・妨害する部落の者たち。
男が脱出しようとして、砂の底なし沼にはまり込んだ場面――「夢も、絶望も、恥も、外聞も、その砂に埋もれて、消えてしまった」。脱走に失敗して、再び穴の中に連れ戻された男が女と再会する場面――「夜明けの色の悲しみが、こみ上げてくる・・・互いに傷口を舐め合うのもいいだろう。しかし、永久になおらない傷を、永久に舐めあっていたら、しまいに舌が磨滅してしまいはしないだろうか?」。男が、まだ脱出を諦めていない場面――「脱出に失敗してからというもの、男はひどく慎重になっていた。冬眠しているくらいのつもりで、穴のなかの生活に順応し、まず部落の警戒を解くことだけに専念した。同じ図形の反復は、有効な保護色であるという。生活の単純な反復のなかに融けこめば、いつかは彼等の意識から、消えさることも不可能ではないだろう」。女との生活の場面――「孤独とは、幻を求めて満たされない、渇きのことなのである。だから、心臓の鼓動だけでは安心できずに、爪をかむ。脳波のリズムだけでは満足できずに、タバコを吸う。性交だけでは充足できずに、貧乏ゆすりをする」。やがて、男に変化が表れる――「いぜんとして、穴の底であることに変りはないのに、まるで高い塔の上にのぼったような気分である。世界が、裏返しになって、突起と窪みが、逆さになったのかもしれない」、「べつに、あわてて逃げだしたりする必要はないのだ」。
これは、まさに不条理の世界であるが、男の行動と思考を通じて、人間の自由とは何か、人間にとっての日常とは何か、男と女の関係とは何か――を考えさせられる。
この不気味な、また、ある意味ではユーモラスな作品は、今では、私が仕事上で、あるいは私生活面で難問に直面したときの精神安定剤の役割を果たしてくれている。