榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

勝海舟の嫁(アメリカ女性)は見た――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その188)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(275)】

【読書クラブ 本好きですか? 2024年8月18日号】 あなたの人生が最高に輝く時(275)

●『勝海舟の嫁 クララの明治日記』(クララ・ホイットニー著、一又民子・高野フミ・君原明子・小林ひろみ訳、中公文庫、上・下巻)

勝海舟の嫁 クララの明治日記』(クララ・ホイットニー著、一又民子・高野フミ・君原明子・小林ひろみ訳、中公文庫、上・下巻)は、勝海舟の三男・梅太郎の妻となったアメリカ女性、クララ・ホイットニーが25年に亘り、こまめに書き続けた日記である。

この日記の魅力は3つある。第1に、1886(明治19)年に勝海舟の三男と国際結婚し、一男五女を儲けたアメリカ女性の日記であること。第2に、米国から遥々日本にやってきたクララの目に映った明治時代の日本が率直に生き生きと描かれていること。第3に、クララが間近に接した勝海舟、福沢諭吉、明治天皇らの人柄や温かみが伝わってくること。

上巻は、1875(明治8)年、14歳のクララが、商法講習所の教師として招かれた父に従い、一家で来日するところから始まる。

同年10月5日には、「日本での生活はますます面白くなってくるので、しばらくしたら、きっとこの美しい島(日本)が祖国のように好きになり、離れるのが残念になるだろう」、11月16日には、「芝の福沢(諭吉)氏のお宅にうかがった。・・・福沢氏は二階に案内して、江戸湾のすばらしい眺めを見せてくださった。・・・やがて福沢氏が夕食をどうぞと言ってくださったので、階下に下りてみると、食卓が半分洋式、半分日本式に用意されていた。・・・福沢氏はとても親切にもてなしてくださって、『またいらっしゃい』と念を押され、どうぞお風呂をお使いくださいと三度も言われた」、12月1日には、「私は日本語の勉強を始めた。むろんとても面白いが、初めは正しい文字を書くのは少し難しかった」と綴られている。

1976(明治9)年3月11日は、「(私の)生徒たちは毎日来る。授業をしている時は面白いと思うのだが、こうして『キャット』だの『ドッグ』だのを教えていると、時々くたくたに疲れてしまう。しかし、生徒たちはとても進歩が早い。そして(日本の)若い女の人たちは何よりもよく笑う」、8月24日は、「勝(海舟)家のお逸(海舟の三女・逸子)が今日十二時に来た。・・・かわいい優しい少女で、私は同国人の友達のように大好きだ。お逸が英語をしゃべれるか、私が日本語をしゃべれるかしたらいいのにとつくづく思う。でも二人は片言同士でなんとかうまくやっているのだ。丸顔で日本人にしては大きないたずらっぽい黒い目をした美少女で、十六歳だが日本では若い淑女なので、結婚の申し込みがたくさんある。でも結婚などしてはいけない! <もしできたら>アメリカに連れて帰りたい」と正直だ。

1877(明治10)年1月1日は、「勝氏がご自身で贈り物を持って来てくださった。・・・なんだか勝氏は、うちの家族に普通の親切以上に気を遣ってくださるような気がする」、2月17日は、「ああ、今日はなんとすばらしい日だったことだろう! 日記さん、前に私たちが将軍(徳川宗家16代当主・徳川家達)のお邸へ招待されたと書いたのを覚えている? え、忘れたって。それならペンでつっついて思い出させてあげよう」と、茶目っ気を発揮している。

1978(明治11)年2月16日は、「いつも親切にしてくださるので私は先生(福沢諭吉)を尊敬している。強い男らしい方で、いろんな有益な本を日本語に訳しておられる。先生の学校(慶応義塾)は弁論で有名だ。また先生は非常にリベラルな考えの持主である。開校した当時は杉田武氏がただ一人の学生だったが、今では大きい学校になっている」、5月16日は、「今月十四日の朝に恐ろしい暗殺事件があった。大久保利通氏が太政官への途中、赤坂の官邸から五町と離れていない地点で六人の男に殺されたのだ。・・・しかし警察や護衛が到着した時にはすでに大久保氏の頭は二つに割られ、胸には刀が柄まで突き刺さり、両手は切り落とされ、そのほか体中傷だらけであった」と生々しい。

下巻の1879(明治12)年11月26日には、「勝夫人は模範的な女性である。洗練された女性でしかも行届いた主婦である。それはご主人にとってありがたいことだ」、11月26日には、「ウィリイ(兄・ウィリス)は勝氏に会いに行って、長話をしてきた。勝氏は現在の事態をきびしく批判され、西郷(隆盛)氏の死後は日本には正直な人間は一人もいないと断言された」と、貴重な証言が残されている。

1880(明治13)年1月25日は、「勝氏についてすてきな話を聞いた。彼は、厳寒の大晦日に、粗末な着物に身をやつし、人力車も伴もつれずに、貧困に打ちのめされた徳川旧藩士の家を歩きまわって、『餅代』を置いてきたという」と、海舟の人間性を伝えている。

1984(明治17)年4月25日は、「今日初めて日本の天皇様(明治天皇)にお目にかかった。・・・写真から想像していたより、ずっとご立派に見えた。背丈は約五フィート八インチか、多分もう少し低いかもしれない。お顔の色は明るいオリーブ色でやや重厚なお顔立ち。お顔には小さい山羊ひげと口ひげがあり、快活で温和な表情をしておられた」と、明治天皇の印象を書き残している。