榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

友よ、涙こらえて立ち上がれ――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その306)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(393)】

【読書の森 2024年12月13日号】 あなたの人生が最高に輝く時(393)

●『嬬恋・日本のポンペイ(最新増補版)』(浅間山麓埋没村落総合調査会・東京新聞編集局特別報道部編、東京新聞出版局)

ヒッシオ、ヒッシオ、ワチワチという異様な音を響かせて、山津波のような熱泥流が押し寄せてくる。逃げ惑う村人たちに交じって、一人の婦人が腰の曲がった母を背負い、村の裏手の高台にある観音堂に逃れようとする。息を切らせながら、観音堂の石段の最下段に足をかける。50段の石段を上り切った村人たちから、母娘に励ましの声がかかる。「早(はよ)う! 早う!」。しかし、その瞬間、2人は背後から襲ってきた熱い泥に呑み込まれてしまう。

文字どおり生死を分けることになった、あと30数段の石段を上れなかったばかりに、泥中深く埋められてしまった無念の母娘が、タイム・カプセルの中で眠っていたかのように、重なったままの姿を現したのは、それから200年を経た1979年の発掘調査の時のことであった。頭蓋骨に基づいて復元された2人の像が、観音堂の裏手の嬬恋(つまごい)村歴史民俗資料館に展示されているが、どちらもなかなか上品な顔立ちをしている。2体とも毛髪が一部残っており、母親のほうは、木綿の繊維跡があったことから、噴火で噴き上げられた軽石などの落下から頭を守るため、綿入れ頭巾を被っていたことが分かっている。なお、この鎌原(かんばら)観音堂は埋没を免れた上から15段の石段とともに現存している。

天明3(1783)年8月5日午前11時、浅間山の大噴火により大量の火砕流が噴出。山腹を時速100km前後の猛スピードで、不気味な轟音を立てながら流れ落ち、地表の土砂、岩、水を巻き込んだ熱泥流が宿場村・鎌原を直撃。鎌原村は火口から12km離れているが、熱泥流が襲いかかったのは、噴出から僅か10分後のことであっただろう。鎌原村全体を厚さ4~5mの泥の底に沈めた熱泥流は、人や家畜、家屋などを押し流し、吾妻(あがつま)川に流れ込む。川沿いの村々を巻き込みながら、利根川に合流。利根川は氾濫し、噴火から1時間後にはかなり下流の前橋付近まで「黒土をねり候様なる水」が溢れ、押し流されてきた火石のために「川一面煙立ち相流れ」、人や家畜、家、家財道具などが重なるように流れ下ってきたと古文書が伝えている。

この浅間押し(熱泥流を土地の人はこう呼ぶ)による死者は1151人。流失家屋1061戸、焼失家屋51戸、倒壊家屋130戸。鎌原村の被害は全118戸が埋没・流失し、死者は村の全人口570人の実に84%に当たる477人。生存者は村の外へ出かけていた者と鎌原観音堂に逃げ延びた者を合わせても93人(男40人、女53人)のみであった。失われた牛馬は165頭。当日の午後には、溶岩流が火口から6kmに亘って噴出し、現在では観光名所となっている鬼押出(おにおしだし)の奇岩群を形成した。この天明の大噴火の影響はこれだけにとどまらず、成層圏に達した火山灰の全国的な拡散で日照が遮られ、冷害をより深刻なものとし、東北地方を中心に30万人の餓死者を出すに至った(いわゆる天明の大飢饉)。

鎌原村は「日本のポンペイ」と呼ばれることがあるが、ポンペイでは、ベスビオ山の大爆発後、住民の90%が生き残ったというのに、故郷を捨てて四散してしまったため、ポンペイは都市としての機能を失い、遂に二度と復興されることがなかった。これに対し、鎌原村の場合は、完全に廃墟となった村に辛うじて死を免れた人々が戻ってきて、悲劇に見舞われたその翌月からもう復興に取りかかっている。それも、妻を失った夫が、夫を失った妻と、子を失った親が、親を失った子と組み合わさって、新しい「家」(家族)を作っての復興である。天明の大飢饉のさなか、大変な苦難を乗り越えての復興である。そして、旧鎌原村の真上に新しい鎌原村を築き上げたのであるが、この村人たちの復興への原動力はどこから生まれてきたのだろうか。

この世に残された者たちが涙をこらえて立ち上がり、力を合わせて新生・鎌原村を再構築していった過程に、思わず拍手を送りたくなってしまう。それにしても、新たに結ばれた夫婦の心境は複雑であったことだろう。いずれもが、あの悪夢のような惨事で妻を失った夫であり、夫を失った妻であったのだから。そして、興味深いことは、この新たな家族作り、村作りが必然的に「身分差なしの共同体」作りにならざるを得なかった点である。埋没前の鎌原村には当然のことながら一定の身分・財産による階層差があったが、鎌原村の再建はそうした階層差を無視した平等原理に基づいて行わざるを得なかった。残された夫、妻、子同士をどう組み合わせるにしても、僅か16%の人間しか生き残っていなかったからである。人間再編と並行して、村作りも進められ、道路の両側を間口10間(けん。約18m)ずつ平等に区割りして、各戸に割り当てたのである。そして、現在に至るまで、鎌原ではどの家も間口10間のルールを守り続けている。

大地震、大津波だけでなく、原発禍という要素が加わった東日本大震災の被害者の皆さんの塗炭の苦しみ、苦労を思うとき、希望の灯を高く掲げ、仲間が心を一つにして、困難に立ち向かった鎌原村の人々の歴史を記した『嬬恋・日本のポンペイ 最新増補版』(浅間山麓埋没村落総合調査会・東京新聞編集局特別報道部編、東京新聞出版局)が、少しでも励ましになればと願っている。