情熱という名の女たち(その7)――「恋する女」と「働く女」を両立させ続けた女・・・【情熱の本箱(7)】
恋も仕事も
与謝野晶子(1878~1942)の「恋する女」としての生涯はよく知られているが、同時に、男に依存することなく働き続けた「働く女」(キャリア・ウーマン)でもあった。
恋する女
堺の老舗の商家に生まれた鳳(ほう)晶子は、幼い時から父の蔵書を読み耽り、古典の教養を身に付けていく。そして、21歳の時、運命の男性、妻子ある27歳の短歌界の革命児・与謝野鉄幹に出会うのである。
1901年に、突如、出現した歌集『みだれ髪』は、情熱的な恋歌で一世を風靡する。この歌集の衝撃力は、何にもまして大胆な性の表現にあった。恋愛の自由はおろか結婚の自由もない時代に、若い娘が性愛の悦びを言葉にする。その奔放さこそ『みだれ髪』が世にセンセーションを巻き起こした所以である。しかも、ここで晶子は「女の身体」を斬新に詠い上げる。あまりにも名高いあの代表作、「やは(わ)肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」に見られるとおり、女の「肌」が、それも女自身によって歌に詠まれるということは、短歌史上かつてなかったことである。『みだれ髪』の先駆性は驚くばかりだ。そして、その水際だった表現は、安易な性表現が溢れ返る現在も、なお、その力を失っていない。「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせぬ」の「ちからある乳」という表現の鋭さは、身体表現として非凡である。鋭さもさることながら、「乳房」を短歌に詠むという表現行為それ自体が衝撃的に新しい。このように述べた山田登世子は、「晶子は『プラトニック・ラヴ』にはおよそ遠い愛欲の詩人」と断じている。まさに、晶子は、ライヴァルに負けじと、甘美な「やは肌」で「道を説く君」を挑発する「恋する女」であった。
情熱歌人
その子二十(はたち)櫛にながるる黒髪のおごりの春のうつくしきかな
清水(きよみず)の祇園をよぎる桜月夜こよひ(い)逢う人みなうつくしき
みだれ髪を京の島田にかへ(え)し朝ふしてゐ(い)ませの君ゆりおこす
乳ぶさおさへ(え)神秘のとばりそとけりぬここなる花の紅(くれない)ぞ濃き
罪おほ(お)き男こらせと肌きよく黒髪ながくつくられし我れ
晶子の歌は、短歌という専門領域を超えて広く世に輝き渡る。どんなに明治の青年男女の胸をときめかせたことだろう。
「これは、かつて日本が持った、男性女性を通じて、最大の天才者の一人であった。女詩人としては、いまだ人類に類例のない第一人者であった。万葉古今以来の、日の本の歌のしらべの伝統は、晶子にいたって初めて完大成されたのであって短歌十数世紀の歴史は、一人の晶子を生むための歴史であったとも言ひ(い)得るのである」と、堀口大學が晶子に最大級の賛辞を捧げている。
働く女
歌人であると同時に、商家に生まれ、店番をしながら娘時代を過ごした晶子には商人の血が流れていた。半世紀に亘って与謝野家の家計を支えるべく働き続けた「働く女」であった。恋をして、母となり、5男6女の子を育て、家事万端をこなし、一生、働き続けたのである。女の経済的自立は晶子の生涯を貫く主張であり、実践であった。労働なしに女の解放はあり得ないと考えていたのである。
永遠の恋人
晶子をベストセラー歌人に育て上げたのは名プロデューサーの鉄幹であったが、やがて妻の名声の陰に逼塞する存在となってしまい、不本意な日々を強いられる。そして、あろうことか、かつての弟子・山川登美子を交えた三角関係が再燃し、この状態は登美子の29歳での死まで続いたのである。
大勢の子どもたちの養育と待ったなしの生活苦に追われ、皺だらけのくたびれた着物を纏った晶子にとって、それでも鉄幹は「永遠の恋人」であった。このような状況の中でも、鉄幹への思いは褪せることなく燃え盛る。晶子は、無聊をかこつ夫に甲斐甲斐しく尽くし、相聞の歌を詠い続けたのである。
「最初の恋の波が引いたあと、女はどのように同じ男を選び直し、情熱をかき立てることができるのだろうか。晶子の人生はその実験みたいなものであった。気むずかしい夫に仕えながら、子ども11人を育て、歌5万首をよみ、評論全集は20数巻に及ぶ。ほか小説、童話、古典研究、信じられない量の仕事を残し、晶子は昭和17年5月29日、絢爛偉大な一生を終えた。63歳であった」と、森まゆみは問いかけている。
【参考文献】
・『みだれ髪』 与謝野晶子著、新潮文庫、1901年
・「もの書く女――与謝野晶子」 森まゆみ著、文春文庫『明治快女伝――わたしはわたしよ』所収、1996年
・『晶子とシャネル』 山田登世子著、勁草書房、2006年
・「与謝野晶子――愛しつづける苦しみ」 森まゆみ著、文春文庫『断髪のモダンガール――42人の大正快女伝』所収、2008年
・『贅沢の条件』 山田登世子著、岩波新書、2009年