ある一等兵の、強い臭気が鼻を突く恐るべき体験・・・【情熱の本箱(105)】
若い頃から読まねばならない本と認識していたのに、今回、手にするまでに長い期間が経過してしまったのが、『野火』(大岡昇平著、新潮文庫)である。
この本の凄まじさは、この箇所を読めば明らかとなる。「私はなんの反省もなく食べている。しかもそれは私が一番自分に禁じていた、動物の肉である。肉はうまかった。その固さを、自分ながら弱くなったのに驚く歯でしがみながら、何かが私に加わり、同時に別の何かが失われて行くようであった。私の左右の半身は、飽満して合わさった。私の質問する眼に対し、(戦友の)永松は横を向いて答えた。『猿の肉さ』『猿?』『こないだ、あっちの森で射った奴を、干しといたんだ』」。
「日が暮れ、焚火の火の赤さが増した。(戦友の)安田と永松はそれぞれ雑嚢から、猿の干肉を出し、火の上に載せた。安田は一枚、永松は二枚出した。そのうち一枚は私の分であった」。
「私は銃声のした方へ駈けて行った。林が疎らに、河原が見渡せるところへ出た。一個の人影がその日向を駈けていた。髪を乱した、裸足の人間であった。緑色の軍服を着た日本兵であった。それは永松ではなかった。銃声がまた響いた。弾は外れたらしく、人影はなおも駈け続けた。振返りながらどんどん駈けて、やがて弾が届かない自信を得たか、歩行に返った。そして十分延ばした背中をゆっくり運んで、一つの林に入ってしまった。これが『猿』であった。私はそれを予期していた。かつて私が切断された足首を見た河原へ、私は歩み出した。萱の間で臭気が高くなった。そして私は一つの場所に多くの足首を見た。足首ばかりではなかった。その他人間の肢体の中で、食用の見地から不用な、あらゆる部分が、切って棄てられてあった。陽にあぶられ、雨に浸されて、思う存分に変形した、それら物体の累積を、叙述する筆を私は持たない」。
敗残兵となった著者のフィリピン・レイテ島での戦争体験が赤裸々に綴られているが、私の鼻にも強い臭気が沁み込んできたので、書き抜くのはここまでとする。
これが戦争の厳しい現実である。戦争ができる国へ向けてひた走る我が国の国民一人ひとりが手にすべき書である。