バルザックという快楽への招待状・・・【情熱の本箱(136)】
『バルザックを読む(Ⅱ 評論篇)』(鹿島茂・山田登世子編、藤原書店)では、45人の文学関係者たちがそれぞれの立場からオノレ・ド・バルザックの魅力を語っている。
長谷川宏はこう記している。「バルザックの小説は一つ一つが独立の作品として書かれていながら、全体が集まって一つの世界をなしてもいて、どれがいい、どれがわるいといいにくいのだ。そして、人物については、大人物も小人物も、善人も悪人も、身分の高い人物も低い人物も、都会人も田舎者も、それぞれに作者バルザックの愛情がたっぷり注がれて、一人一人ぬくもりのある人間となっている。ぬくもりは読者にも確実に伝わってくるから、それを感じた上でその人物を魅力がないと切りすてるのは、それはもうほとんど不可能に近いのだ。おまけに、あちらの小説に登場した人物がまたこちらの小説にも登場してくる、といった楽しい経験を、バルザックは随所で味わわせてくれる」。バルザックの膨大な作品群『人間喜劇』の構造と魅力が的確に捉えられている。
吉田典子は、『人間喜劇』における『ペール・ゴリオ(ゴリオ爺さん)』をこのように位置づけている。「周知のようにバルザックが人物再登場法を初めて意識的に採用したのが『ペール・ゴリオ』であるが、これは実際、あらゆる方向に開かれた小説である。ゴリオの死で物語の幕は一応おりるものの、読者としてはまだまだ話が終わった気はしないだろう。ラスティニャックはどんなふうにして出世するのか、あるいはゴリオの二人の娘、アナスタジーとデルフィーヌの運命は・・・等々、読者の興味は宙づりにされたままである」。
佐野栄一によるバルザック時代の不倫の分析は興味深い。「19世紀、ことにバルザックの世界においては、不倫こそが、最も美しい恋愛劇を作り上げる要件になっている。よく知られているように、上流社交界では、結婚は家柄と財産によって決められる。そのため、結婚後、妻が年齢差のある夫とは別の男に恋することは自然であり、半ば当然の権利とされてきた。しかし、そこには誰もが認めるいわば理想的不倫と計算ずくの不倫とがある。・・・金と名誉が絡むと不潔になるのは世の常である」。
「『人間喜劇』には、グランデ爺さんやニュシンゲン男爵など、金儲けのうまい人物が登場する。ところが作者バルザックは、26歳のとき、両親をはじめとする身近な人々から資金を借りて出版業を始め、たちまち印刷業と活字製造業に手を広げ、その全てに失敗して、約3千万円の借金を背負った。原因は、持ち前の楽天的な性格が災いした放漫経営である。これが始まりであって、その後一生、浪費癖と事業の失敗により、借金がつきまとう」――と、早水洋太郎は、バルザックは金儲けが下手だったと断じている。
清水徹は、『人間喜劇』の隠れた支配者は悪の権化・ヴォートランだと指摘した上で、「ヴォートランとはバルザックそのひとだ」と言い切っている。
男装の麗人として知られる作家のジョルジュ・サンドと5歳年上のバルサックが、恋愛を抜きにした友情で結ばれていたことが、飯島耕一と持田明子によって詳しく紹介されている。
バルザックの死から3年後、サンドは『人間喜劇』の序文にこう記している。「未来の読者諸氏よ、1830年の人間たちはバルザックがあなた方の眼前に描き出すとおりの悪人で、善人で、狂人で、賢者であり、また聡明で、愚かしく、夢想家で、実利的で、なおまた、浪費家で、金もうけに汲々としていたのだ。彼の同時代人たちは誰もがこぞってそれを認めようとしたわけではなかった。このことにあなた方は驚きはしないだろう。だが、彼らは自らの心臓が鼓動を打っているのを感じるこれらの作品をむさぼるように読んだ。彼らは怒りに駆られながら、また、うっとりして読んだのだ」。
苟も読書を愛する人間が、バルザックという快楽を一度も味わうことのない人生を送るなんて、何ともったいないことだろう。これは、バルザックという快楽に首まで浸かっている私の正直な気持ちである。