日本人の祖先には縄文人、弥生人だけでなく、もう一つの集団がいたという仮説・・・【情熱の本箱(226)】
『日本人の源流――核DNA解析でたどる』(斎藤成也著、河出書房新社)では、日本人の祖先には縄文人、弥生人だけでなく、もう一つの集団がいたという驚くべき仮説が提示されている。
著者が提唱する「ヤポネシア(日本列島)への三段階渡来モデル」は、このようなものである。
第一段階は、約4万年前~約4400年前(ヤポネシアの旧石器時代から縄文時代の中期まで)である。「第一波の渡来民が、ユーラシアのいろいろな地域からさまざまな年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にわたってやってきた。北から、千島列島、樺太島、朝鮮半島、東アジア中央部、台湾からというルートが考えられる。・・・主要な渡来人は、現在の東ユーラシアに住んでいる人々とは大きくDNAが異なる系統の人々だったが、彼らの起源はまだ謎である。途中、採集狩猟段階にもかかわらず、1万6000年ほど前には縄文式土器の作製が始まり、歴史区分としては縄文時代が始まった。しかしこのモデルでは、ヤポネシアに居住していた人間は旧石器時代から連続していたと仮定している」。
第二段階は、約4400年前~約3000年前(縄文時代の後期と晩期)である。「日本列島の中央部に、第二の渡来民の波があった。彼らの起源の地ははっきりしないが、朝鮮半島、遼東半島、山東半島にかこまれた沿岸域およびその周辺の『海の民』だった可能性がある。彼らは漁労を主とした採集狩猟民だったのか、あるいは園耕民(農耕だけでなく、採集狩猟も生業としている人々)だったかもしれない。以下に登場する第三段階の、農耕民である渡来人とは、第一段階の渡来人に比べると、ずっと遺伝的に近縁だった。第二波渡来民の子孫は、日本列島の中央部の南部において、第一波渡来民の子孫と混血しながら、すこしずつ人口が増えていった。一方、日本列島の中央部の北側地域と日本列島の北部および南部では、第二波の渡来民の影響はほとんどなかった」。
第三段階前半は、約3000年前~約1700年前(弥生時代)である。「弥生時代にはいると、朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から、第二波渡来民と遺伝的に近いがすこし異なる第三波の渡来民が日本列島に到来し、水田稲作などの技術を導入した。彼らとその子孫は、日本列島中央部の中心軸にもっぱら沿って東に居住域を拡大し、急速に人口が増えていった。日本列島中央部中心軸の周辺では、第三波の渡来民およびその子孫との混血の程度がすくなく、第二波の渡来民のDNAがより濃く残っていった。日本列島の南部(南西諸島)と北部(北海道以北)および中央部の北部では、第三波渡来民の影響はほとんどなかった」。
第三段階後半は、約1700年前~現在(古墳時代以降)である。「第三波の渡来民が、ひきつづき朝鮮半島を中心としたユーラシア大陸から移住した。日本列島中央部の政治の中止が九州北部から現在の近畿地方に移り、現在の上海周辺にあたる地域からも少数ながら渡来民が来るようになった。それまで東北地方に居住していた第一波の渡来民の子孫は、古墳時代に大部分が北海道に移っていった。その空白を埋めるようにして、第二波渡来民の子孫を中心とする人々が北上して東北地方に居住した。日本列島南部では、グスク時代の前後に、おもに九州南部から、第二波渡来人のゲノムをおもに受け継いだヤマト人の集団が多数移住し、さらに江戸時代以降には第三波の渡来民系の人々もくわわって、現在のオキナワ人が形成された。日本列島北部では、古墳時代から平安時代にかけて、北海道の北部に渡来したオホーツク文化人と第一波渡来民の子孫のあいだの遺伝的交流があり、アイヌ人が形成された。江戸時代以降は、アイヌ人とヤマト人との混血が進んだ」。
日本列島人を大きく捉えると、北部のアイヌ人と南部のオキナワ人には、中央部のヤマト人と異なる共通性が残っており、この部分は、新・旧二つの渡来の波で日本列島人の成立を説明しようとした「二重構造モデル」と同一である。著者のモデルが新しいのは、二重構造モデルで一つに考えられていた新しい渡来人を、第二段階と第三段階に分けたところだ。この三段階渡来モデルは、著者らのDNA研究の結果から提案されたものだが、他の研究分野でも同じような考え方が提唱されている。
本書は、ここ10年足らずの間に急速に蓄積してきた新しい膨大な核ゲノム・データの解析結果に基づいているだけに、強い説得力がある。