専門職としての看護婦の必要性を訴え続けた女――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その27)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(114)
●『ナイチンゲール著作集(全3巻)』(フローレンス・ナイチンゲール著、薄井坦子・小玉香津子・田村真・金子道子・鳥海美恵子・小南吉彦編訳、現代社)
●『フロレンス・ナイチンゲールの生涯(全2巻)』(セシル・ウーダム・スミス著、武山満智子・小南吉彦訳、現代社)
●『ナイチンゲールの生涯』(エルスベス・ハクスレー著、新治弟三・嶋勝次訳、メヂカルフレンド社)
●『大人のための偉人伝』(木原武一著、新潮選書)所収の「ナイチンゲール――もっとも幸福な仕事とは」
【最も幸福な仕事】
「最も幸福な人々、自分の職業を最も愛する人々、自分の人生に最も感謝の念を抱いている人々、それは私の考えでは、病人の看護に携わっている人々である」。フローレンス・ナイチンゲール(1820~1910)が、親しかった看護婦に捧げた「アグネス・ジョーンズを偲んで」という文章の一節である。看護婦ほど、やりがいのある素晴らしい仕事はないというのが、ナイチンゲールの生涯変わらぬ信念であった。
【看護婦という職業の確立】
ナイチンゲールの最大の業績は、当時の上流階級の人々にとっては口に出すのも恥ずかしい看護婦という職業のイメージを一変させたところにある。ナイチンゲールの時代の看護婦は、専門知識を持ち訓練を積んだ現代の看護婦のような存在ではなかった。その頃のロンドンの病院は堕落と不潔の巣窟であり、一種の貧民収容所であった。一言で言えば、病院も看護婦も酷いレヴェルだったのである。
このような状況の中で、ナイチンゲールは看護婦を訓練するための学校を設け、看護婦を一つの専門的職業として確立すべく全力を注いだのである。
【クリミアの天使】
ナイチンゲールは、しばしば、「クリミアの天使」と呼ばれるが、その地帯で自ら看護婦として、また管理者として奮闘したのは、2年足らずに過ぎない。彼女の正式な肩書きは「トルコ領内における英国陸軍病院の女性看護要員の総監督」といういかめしいものであった。規則にやかましいナイチンゲールを看護婦たちは冷酷な女だと嫌っていた。また、陸軍の将校にとっては、さまざまな苦情を持ち込む彼女は目の敵であった。
「クリミアの天使」という敬愛の念を込めた愛称を広めたのは、病死を免れて故国に帰還した兵士たちであった。ナイチンゲールは一冬に2000人の死に立ち会い、24時間ぶっ続けで働くことも珍しくなかったという。ある兵士は手紙に書いている。「あの方が通り過ぎる姿を目にしただけでどんなに慰めになったことか。彼女はある者には言葉をかけ、他の多くの者たちには黙って頷きながら微笑を投げかけていった。もちろん、我々は何百何千人といたので、全員にそうすることは不可能であったが、それでも我々は通り過ぎていく彼女の影に接吻し、それから満足して再び枕に頭を埋めるのであった」。
ナイチンゲールは兵士の身の上相談にも応じ、給料を故国に送金する代役を引き受けた。また、元気を取り戻したものの、まだ退院できない兵士のために読書室を開設し、大部分の者は読み書きもできないことを知るや、専門教師の指導のもとに学校まで開いたのである。その授業は超満員であったという。
【帰国後の活躍】
クリミア戦争での体験から彼女が最も強烈なインパクトを受けたのは、英国陸軍の病院管理がいかに悲惨であるかということであった。帰国後、直ちにこの課題に取り組むことになるのだが、そのプロセスを見ると、彼女がいかに行政的能力、実務的能力に長けていたかがよく分かる。
クリミア戦線から帰国後のナイチンゲールは病気がちで、その後の半世紀に及ぶ生涯のほとんどを病床の上で過ごしながらも、こと病院や看護の問題に関しては英国は言うまでもなく、世界中の国々のリーダーとして獅子奮迅の活躍を続けたのである。
【上流階級の令嬢】
ナイチンゲールは、日々の出来事や感想、思索などを丹念に記した膨大な量の「私記」を残している。信仰心が篤い彼女は、上流階級の令嬢として社交界の人気者であったが、当時の上流階級の女性の生き方に空しさを感じていたことが、「私記」から分かる。「ああ、飽き飽きするような退屈な毎日」、「年毎に若さを失っていくこと以外、私が生き続けていても何も得るものはありません」と、彼女は溜め息を漏らす。単に生きていることでは満足できず、よりよく生きて何か意義あることをなしたいと願うが故の苦悩であった。その志が高ければ高いほど、悩みも深く、「私記」の記述からは彼女が精神的崩壊寸前の状態にあったことが窺われる。
【天職との出会い】
ナイチンゲールの90年に及ぶ生涯から強く印象づけられるのは、仕事というものがいかに人間を変え、人間を成長させるかという事実である。看護婦という天職に携わるようになってからのナイチンゲールは、それまでの優柔不断で、生きることにしばしば絶望し、夢想に逃避することの多かった世間知らずの理想主義者から、自己の信念を確信し、世の悪や不合理を臆せず指摘し、用意周到に自分の意見を貫き、目標を着々と実現していく現実主義者へと一変したのである。クリミア戦争におけるナイチンゲールの体験と変化は、仕事が人間を強くし、仕事が人間の潜在的な力を引き出すものであることを示している。
木原武一は、「興味深いのは、例えば、複雑な統計資料を見やすくするために、円グラフや棒グラフなどの図形によって表現するという方法を考え出していることである。このような方法の考案者はナイチンゲールが最初だといわれている。他人を説得するための工夫も忘れなかったところに彼女の実務家としての優れた一面がある。・・・政界につくりあげた人脈もさることながら、彼女の徹底的な調査力とプレゼンテーションの技術には老練の政治家も一目置かざるをえなかったからである。彼女は何か新しいことを調べ始めると、たちまちその分野の専門家になることができるような人間だった。彼女のやり方を眺めると、誰でも、その気になり、そのための努力をすれば、たいていの分野の専門家になれるのではないかとさえ思えてくる」と記している。