榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

内田百閒様、あなたは相当な変わり者ぞなもし――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その181)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(268)】

【読書の森 2024年8月11日号】 あなたの人生が最高に輝く時(268)

●『第一阿房列車』(内田百閒著、新潮文庫)

内田百閒(ひゃっけん)様、あなたの師・夏目漱石先生の『坊っちゃん』に登場する伊予辯を真似てお手紙を始める失礼をお許しください。

これまで、あなたのただならぬ風貌に恐れをなして、あなたの作品には近づかないようにしてきたのですが、今回、さる事情により、『第一阿房列車』(内田百閒著、新潮文庫)を手にせざるを得なくなったのでございます。

あなたの作品の熱烈な崇拝者たちが、作品のみならず、あなたという人物にも心酔するあまり、一種の中毒症状を呈していることはよく存じておりますが、変わり者の私には、あなたが漱石先生のユーモアの流れを汲み、それを発展させているとはどうしても思えないのでございます。無礼を承知の上ではっきり申し上げますが、漱石先生のユーモアとは似て非なるものと考えております。

理知的な小説家・評論家として知られる伊藤整氏も、この文庫の「解説」で、「内田百閒のものの考え方は、笑おうという慾望を持って読む人にとってはユーモラスで面白いものだろうと想像される。また、この世の中を、あまりせせこましくなく、もっと実質を離れた立場から眺めたいと思う人に対しては、心のゆとり、というようなものを教えるにちがいない。また機智というものを愛するがために、それを学びたいと思う積極的な心を持った人も、この『第一阿房列車』の中には学ぶべきものが多いことを見出すだろう。そのような点では、私は百閒氏の作品を好む人々に対して、その人々の素直な気持ちを、そのままでいいのだ、と言ってあげたい」と述べていらっしゃいます。普段ははっきりものを言う伊藤氏には珍しく、何とも奥歯にものの挟まったような物言いではありませんか。私は、勝手に、伊藤氏も私と同じ考えなのではないかと拝察いたしております。

「用事がなければどこへも行ってはいけないと云うわけはない。なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」、「それからは毎晩、お膳の後で汽車の時刻表を眺めて夜を更かした。眺めると云うより読み耽るのである。・・・くしゃくしゃに詰まった時刻時刻の数字を見ているだけで感興が尽きない。こまかい数字にじっと見入った儘(まま)で午前三時を過ぎ、あわてて寝た晩もある」という件(くだり)など、鉄道ファンには堪らないのでしょう。

また、「阿房(あほう)と云うのは、人の思わくに調子を合わせてそう云うだけの話で、自分で勿論阿房だなどと考えてはいない」、「(台湾で、車窓から見える)その山脈の続いている中に、富士山より高い山が五つ、一万尺以上の山を数えると四十八座ある。私はこう云う事まで知っている。物知りであって、阿房どころの話でない」、「利害得失を明かにする方針の私などには、(夢袋氏の)その料簡(りょうけん)は解らない」、「酒を飲んでいても、利害得失の判断は出来る」といった箇所は、あなたと同じ性向の人たちの共感を呼ぶのでしょう。

そして、「私は駅長の勧誘を受けながら考えて見たが、面白そうではあるけれど、行けばそれだけ経験を豊富にする。阿房列車の旅先で、今更見聞を広めたりしては、だれにどうと云う事もないけれど、阿房列車の標識に背く事になるので、まあ止めにして置こう」、「どこかへ行って見ましょうかと云うから、駅前の広場に立っている名所案内の地図を眺めた。どこへも行って見たくない。城内のわきに税務署があるらしい。地図にちゃんとそう書いてある。行って見るとすれば、先ず税務署ぐらいなものだろう」、「人の乗り降りの多い小駅を幾つか過ぎて、山寺と云う駅に著(つ)いた。随分長い間停車している。それで窓から山の迫っている景色を眺め、又歩廊の掲示を読んだ。芭蕉の、閑さや岩に沁み入る蝉の声のお寺がここだとは知らなかった。掲示板に立石寺、蝉塚などの字が見える。汽車から降りて行って見たい気もするが、それは又今度の事、その今度と云うのは、いつの事か解らない」といった、飽くまで自分の流儀を押し通すあなたの姿に自分を重ね合わす読者も多いのでしょう。

失礼をも顧みずに、いろいろと勝手なことを申し上げましたが、世の中にはこういうタイプの人もいるんだと知ることができたこと、そして、これぐらいの経験をこれだけの量の文章にすることができるんだと学べたことを、心より感謝いたしております。