八甲田山雪中行軍遭難事故の真実を知り、福島大尉にはがっかり――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その212)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(299)】
閑話休題、新田次郎の『八甲田山死の彷徨』(新田次郎著、新潮文庫)は、長らく私の愛読書でした。明治35(1902)年1月、厳寒の八甲田山の雪中踏破訓練に挑んだ青森第5連隊は、参加者210名のうち実に95%に当たる199名が凍死するという悲惨な結果を招いてしまいます。一方、同一コースに逆方向から挑戦した弘前第31連隊が1名の犠牲者も出さずに踏破に成功したことが描かれています。
雪中行軍の結果にこれほど大きな相違が生じてしまったのは、第5連隊を率いた神成文吉大尉(小説では神田大尉)と第31連隊を指揮した福島泰蔵大尉(小説では徳島大尉)のリーダーシップの差だということで、私は福島大尉の判断と行動に強い憧れを抱いてきたのです。
ところが、何ということでしょう。この遭難事故の真実は新田の小説とは違うという書物が出現したのです。『八甲田山 消された真実』(伊藤薫著、山と溪谷社)は、第5連隊の数少ない生存者である小原忠三郎伍長を初め、伊藤格明中尉、長谷川貞三特務曹長、後藤房之助伍長、阿部卯吉一等卒、後藤惣助二等卒らの証言や新聞記事、陸軍省の文書などに基づいて書かれているので、説得力があります。1964年、「余命いくばくもないと悟っていた小原元伍長は、62年間の沈黙を破り、遭難当時の状況を語り始めたのである。演習準備、予備行軍、編成、服装・装備、屯営出発から山中をさまよい救助されるまでの様相、裏話など、小原さんからの聞き取りは2時間を超えた。貴重だったのは、遭難事故の核心に触れる山口鋠少佐や神成文吉大尉らの言動を、小原さんが詳細に記憶していたことである」。小原伍長は、「雪中行軍で奇跡的に救出されたが、凍傷が重く両足は足首から切断され、両手は親指を残すだけとなった」のです。
本書によって、●八甲田雪中行軍は第31連隊の福島大尉が発案した、●第31連隊の計画を知った第5連隊の津川謙光連隊長が対抗心から第5連隊の雪中行軍を急遽、命令した、●第5連隊の雪中行軍は、ずさんな計画、いい加減な予行、不十分な準備というマイナス要因を内包していた、●第5連隊の雪中行軍部隊が窮地に陥ったのは、同行していた上役の山口少佐の状況判断や命令が原因であったが、指揮官の神成大尉は逆らわず、山口少佐の暴走を止めることができなかった、●津川は責任を問われず少将に栄転した――ことが明らかになりました。「一体、この八甲田山雪中行軍とは何だったのか。それは一人のメンツのために199名が命を落とし、8名が手足を切断したということなのだった。その結論に至ったときの、ぶつけどころのない怒りはしばらく鎮まることはなかった。それに加えて判断の無謀さ、訓練練度の低さ、捜索の遅さ、事故報告の虚偽等にあきれ、斃れていく将兵を憐れみ、幾度となくペンが止まることもあった」。
これだけでも驚きであるが、私を打ちのめしたのは、憧れの対象であった福島大尉の実態が暴かれていることです。福島大尉は、●沈着冷静、緻密だが、功名心が強く、仁愛に欠ける、●雪中行軍の通過地の各村落に休憩地・宿泊地・嚮導(案内)人の斡旋、食料の補給などを依頼していた(「聞こえはいいが、別な見方をすれば饗応ではないか。そしてその饗応が実際に行なわれていたのだった」)、●遭難しかけた時に嚮導人に救われたのに、嚮導人を奴隷のように扱い、彼らに悪逆無道な振る舞いをした(生存していた嚮導人からの聞き取り)、●雪中行軍に成功したのに、自分を評価しない師団を不満に思い、新聞を利用して自らの成果をアピールした――というではありませんか。福島大尉にこれほど幻滅させられるくらいなら、本書を手にしなければよかったとさえ思うほどです。