榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

漱石の古参弟子たちの新参弟子たちへの思い――老骨・榎戸誠の蔵出し書評選(その237)・・・【あなたの人生が最高に輝く時(324)】

『読書の森 2024年10月5日号】 あなたの人生sが最高に輝く時(324)

●『漱石の長襦袢』(半藤末利子著、文春文庫)

漱石の長襦袢』(半藤末利子著、文春文庫)は、3つの点で面白い。第1点は、漱石の高弟たちに対する悪口が容赦なく書かれていること。第2点は、漱石の妻・鏡子に代表される中根家の面々が途轍もなく興味深い人々であること。第3点は、私が知らなかった漱石のエピソードに触れることができたこと。

著者は、漱石の一番年若い弟子であった松岡譲と漱石の長女・筆子の四女であるが、「漱石を書く時、私は緊張を強いられることがない。祖父といっても著書を通してと、母筆子が語った漱石しか私は知らない。漱石は私にとっていわば他人に近い存在なので、努力しなくとも客観視できる」と語っている。

第1点として挙げた高弟たちの悪口は、本書のあちこちに出てくるが、弟子の中で最長老の寺田寅彦に対しては、とりわけ辛辣である。漱石の没後7年経った時、漱石の「漱石山房」を漱石文学館として保存しようという動きが持ち上がる。「ところが『天災は忘れた頃にやってくる』という金言を遺した寅彦が真先に口火を切り、旧居の玄関には蔦がぶら下がっていて風情があったなあ、(漱石)先生は一生安家賃の借家住まいに甘んじていたのに、遺族は高級住宅か、と不平混じりに昔話を語り始め、肝腎要の返答をわざと避けて通っている風である。門下の親分格でもある寅彦がこの有様であるから、小宮(豊隆)、安倍(能成)、森田(草平) などのお歴々も右へならえで、門下の中の誰一人として山房の永久保存を積極的に推進しようとする者はいなかった。・・・以前、作家高井有一氏が『しみじみとした人柄を感じさせる文章を読んだからといって、それを書いた人がよい人だなんて思っちゃいけません。騙されてはいけません。いいですか、皆さん、文章と人柄は別なんですよ』と念を押すように言われたことがある。その時、私はなぜか寅彦の顔を思い浮かべた」。

第2点の中根家の人々の興味深い人間性に関する記述は、それこそ枚挙にいとまがない。著者にも母を通じて、中根家の性格が濃厚に受け継がれていることは間違いない。

第3点のエピソードは、印象的なものの中から、いくつか挙げてみよう。
●小説を書くために漱石は東京帝国大学教授という一生安泰に偉そうに暮らせる将来のご身分を捨てて、朝日新聞社に入社した。茂木(健一郎)さんは強調する。「朝日新聞なんて今でこそ大新聞かもしれないけど当時はベンチャー企業ですよ」。
●(漱石は)彼を慕って集まる弟子達に分け隔てなく接し、弟子達一人一人に「私の漱石」「私だけの先生」という気持を抱かせる人であった。だから小宮豊隆が自分が一番先生を理解していて「自分ほど先生に愛された弟子はいない」と思い込むのは勝手であるが、勘違いも甚だしい愚かな思い上がりにすぎないと私には思われる。とにかく古参の弟子達は、漱石が自分達と同等に扱う芥川(龍之介)、久米(正雄)、松岡、赤木(桁平)ほか若い新しい弟子達の存在が面白くなく、ことあるごとに先輩風を吹かせていたらしい。・・・(漱石没後に新参者達を何かと庇う親分肌の鏡子の態度が)また古参連中の神経を苛立たせ、忌々しい悪妻と小癪な若造どもめという図となったに違いない。
●私の母筆子(漱石の長女)は、鏡子が度外れて豪胆であったからあの漱石と暮らしていけたのだ、と「お祖母ちゃまが普通の女の人だったら早々と逃げ出すか、気が変になるか、自らの命を絶っていたことでしょうよ」といつも鏡子を庇っていた。
●女房と大喧嘩し、病気とはいえ、女房や子供に対して狂気の沙汰を演じ、強情を張り通し、悩み、苦しみ、度重なる病と闘い、でも権力には決して屈しない、欠点の多い人間(漱石)の書いた、血の通った小説であるからこそ興味が尽きないのではないか。
●(修善寺で)入院中に書き始めた『思ひ出す事など』は漱石から鏡子へのラブレターであると思う、と言って(小森陽一)教授は鼎談を結んだ。
●当時精神病(狂気)とその道の大家によって診断され、母(筆子)も生涯それを信じていたのでしたが、近年それは誤診であって、鬱病の発作であったことが千谷七郎先生によって証明されたと聞き、本当に安心いたしました。