大津波でも、「患者を放っては逃げられない」病院の迫真ドキュメント・・・【山椒読書論(170)】
涙で何度もページが霞んでしまった。『海の見える病院――語れなかった『雄勝』の真実』(辰濃哲郎著、医薬経済社)は、宮城県石巻市の海に面した市立雄勝病院が2011年3月11日の巨大津波に呑み込まれ、患者40人、職員28人のうち4人しか生き残れなかった悲劇のドキュメントである。
朝日新聞記者出身の著者は、「『患者を放っては逃げられない』という病院の特殊事情が招いた悲劇を、どうしても記録として伝えたかった」と語っている。
第1章「海辺の風景」の扉には、「春先のこの時期にしては、寒い朝だった」、第2章「そのとき」には、「病院が津波に襲われたとき、彼らは当たり前のように、そこにいた」、第3章「宿命」には、「逃げる人の波に逆らって、彼女たちは、病院に駆けつけた」、第4章「遺したもの」には、「財布に入れた、小さな紙切れに込められた、父の思い」、第5章「風のにおい」には、「いつもの光景に、いつもの部屋。足りないものが、ひとつだけ」、第6章「友」には、「親しいがゆえに、深めてしまう心の傷。震災が残した、見えない爪あと」という短い文章が添えられている。
「午後2時46分。そのときだ。看護師の(高橋)恵は、4人部屋の窓際のふたりの患者の検温と血圧測定を終えて、入り口に近い3人目にとりかかろうとしていた瞬間だった。強い揺れに思わずベッドにつかまった。『ゴー!』という下から突き上げるような地鳴りが聞こえる。やがて立っていられなくなった。とっさに患者を安心させようと叫んでいた。『大丈夫だからね!』」。
「午後3時を、少し過ぎていた。病院の山側に逃げれば、100メートルも走れば高台に出る。その先も山の稜線が続く。だが(狩野研次郎)院長らは『患者がいるから』と言って、逃げる気配はない。しばらくすると、近隣の住民らが避難を始めた。ひとりのお年寄りが急ぎ足で病の駐車場に入ってきた。『津波さ来る。早く、逃げろ!』。それを聞いていた副院長の鈴木が、答えた。『患者を置いて逃げられない。さぁ、戻りましょう』。そう言うと、病院の正面玄関の方へ歩き出した」。
「『来るぞ』。対岸の唐桑地区の防波堤が見えた。その下で、ふだんなら見えるはずのない海底が露出していたのだ。『エッ? 潮が引いている』。しばらくすると、今度はモコモコと水かさが増してくる。どこから湧いてきたのかと思うほどの海水の塊が、対岸にある高さ6メートル近い堤防を軽々と越えていく。瞬く間に海面に隠れてしまった。『来たぞ!』。それから1、2分も経たないうちに、病院側の堤防から水があふれてきた」。
「2階が水没し始めた。鈴木孝壽副院長が、大声で叫んでいた。『もうダメだ! 屋上へ上がれ!』。再び鈴木の号令が飛んだ。『患者を屋上に上げるぞ!』」。
「(看護科部長の)の末永(三和子)は、いったん屋上に避難したものの、津波が3階を埋める直前に3階病棟に戻った。患者を助けるためなのか。最後の瞬間まで患者に寄り添おうとしたのか」。
「津波が堤防を越えてから病院3階が水没するまでの時間は、わずか15分ほどだったことになる」。
「次の瞬間、4人は屋上に流れ込んできた冷たい濁流に、次々と呑まれていった。そして患者も、そのなかに消えた」。
「(安置所で父・鈴木孝壽の所持品の)財布の中から、ポロリと写真が落ちてきた。ボロボロになった写真には、七五三のときの兄妹がはにかんだ笑顔で写っている。そしてもうひとつ。財布の奥に紙切れがあった。裕美たちが幼稚園のときにつくった『かたたたきけん』だった」。
「みえ子は、遺品を自宅に持ち帰ってから気がついたことがある。携帯電話のストラップを見て、嗚咽した。27年前に、みえ子との間で交わした結婚指輪がついていた。みえ子はとっくに失くしてしまったのに、夫(薬剤科部長の山田朗)は大切に携帯にぶら下げて身に着けていてくれた。そんなこと、一度も聞いたことなかったし、気づきもしなかった。『おとさん、ごめんな』」。
生き残った者たちは、なぜ、この2年間、真実を語ることができなかったのか。「多くの職員を失った雄勝病院は、また同時に40人の患者全員を死なせてしまった。残った職員は、多くの同僚を失った悲しみと同時に、患者を守れなかった負い目を抱えながら生きている。雄勝病院の惨状が、まるで秘事のように語られてこなかったのは、そこに二重の悲劇があるからだ」。病院故の悲劇がここにある。心に重い一冊だ。