榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

あなたも簡単に殺人者になり得る――実験結果と歴史的事実・・・【情熱の本箱(258)】

【ほんばこや 2018年11月28日号】 情熱の本箱(258)

軽い気持ちで手にした、220ページほどの『虐殺のスイッチ――一人すら殺せない人が、なぜ多くの人を殺せるのか?』(森達也著、出版芸術社)だが、読み進めるうちに恐るべき本だと気づき、心が震えた。

ミルグラム実験――。「アイヒマン裁判から2年が過ぎた1963年、アメリカのイェール大学で教鞭をとりながら心理学を研究していたスタンレー・ミルグラムは、ある心理実験を行った。参加者たち(一般市民)は、渡された設問を別室の(イェール大)学生に伝え、もしも学生が間違った回答をした場合には電気ショックを与えることを命じられた。学生は椅子に拘束されている。その電極に繋がるレバーを押す参加者の部屋にはスピーカーが設置されていて、学生の苦痛を訴える声が聞こえるようになっていた。ただし、実際には電気は流れていない。学生の苦痛は演技なのだ。苦悶の声は事前に録音されていた。つまり、社会心理学的なドッキリ実験だ。ミルグラムも含めて実験前の研究者たちは、大半の参加者は途中で実験を放棄するだろうと予想していた」。

「ところが、結果は誰も予想しないものとなった。学生の『死んでしまう』とか『やめてください』などの悲鳴や絶叫を聞きながら、参加した他のメンバーたちはきちんと任務をこなしていると説明を受けていた市民たちは、横に座る教授という『権威』に促されるままにレバーを押し続け、最終的には参加者40人中25人(61.5%)が、最大の電圧である450ボルト(心臓が停止する可能性がある数値で、そのことは事前に説明されていた)まで電圧を上げ続けた。この心理実験は、ナチスによるホロコーストのメカニズムを検証する実験でもあった。だからミルグラム実験という呼称以外に、アドルフ・アイヒマンの名を取って『アイヒマン・テスト』と呼ばれることもある」。この実験結果は、ごく普通の人も、一定の環境に置かれたとき、明らかに人を殺める可能性があると推定される指示にさえ、簡単に従ってしまう傾向があることを示している。「その際のキーワードは、決して洗脳やマインドコントロールなど仰々しい語彙ではなく、権威からの指示と、集団における同調圧力だ。環境や因子さえ整えならば、誰もがナチス兵士や親衛隊員になりうるのだ」。

ミルグラム実験は、この半生記の間に世界の多くの研究機関や大学で追試が行われ、十分に証明されている。むしろ、オリジナルのミルグラム実験よりも、高い数値を出している追試が少なくない。

ミルグラム実験のテレビ版――。「2010年にフランスの公共放送局が、対戦相手が質問に答えられなかったら身体に電流を流すという新しいクイズ番組のテスト収録を実施した。参加者は公募で集めた80人の市民たちだ。これも実験だった。市民たちの対戦相手に選ばれた男はテレビ局が用意した俳優で、苦しむ演技をすることになっていた。この実験でも市民の多くは、司会者という権威に従属し、観客という場の圧力に押され、結果としてはミルグラム実験を上回る81%の人たちが、最高値の450ボルトまでレバーを押し続けた。この顛末は、ドキュメンタリーとしてフランスの公共放送局で放送され、大きな社会問題になった」。

ポーランドの研究機関の実験――。「2017年3月、学術誌『Social Psychological and Personality Science』に掲載されたポーランドの研究機関の実験研究では、被験者となった18~69歳までの80人(男性40人、女性40人)のうち、90%(80人中72人)が電気ショックのボタンを最後まで押し続けた」。

ゴールディングの『蠅の王』(ウィリアム・ゴールディング著、平井正穂訳、新潮文庫)――。「『蠅の王』はまさしく『十五少年漂流記』(ジュール・ヴェルヌ著、石川湧訳、角川文庫)の裏バージョンだ。飛行機が墜落して漂着した無人島で、最初は助け合っていた子どもたちが、やがて殺し合うまでの過程を描いている」。

カンボジアを支配したクメール・ルージュ(ポル・ポト派)による、150万人(国連推計。餓死を含む)に上る殺戮――。「この(巨大な)樹はキリング・ツリーと呼ばれている。赤ん坊を処刑する際には、足を持って振り回し、この樹木の硬い幹に頭部を何度も打ち付けた。ロープで縛られた母親はそばで絶叫する。赤ん坊を殺し終えた兵士や看守たちは、次に母親を裸にして凌辱し、最後に木の棒などで殴り殺したという」。

ホロコースト、インドネシアの共産主義者虐殺、文化大革命、クメール・ルージュの虐殺、ルワンダのツチ族虐殺、オウム真理教の大量殺人などの要因となった集団化と同調圧力の考察を深めていくと、学校におけるいじめ、ヘイト・スピーチと同じ構造であることに気づかされる。本書の恐ろしさは、まさに、この指摘にある。「異物と見なす理由は、動きの差異だけではない。皮膚や眼の色の違い。言葉のイントネーション。あるいは自分たちとは違う神を称えていること。理由は様々だ。ただし、一つだけ条件がある。やられる側が少数であるか弱者であることだ。その少数派の集団を、多数派の集団が攻撃する」。「群れることを選択した人類は、誰もがアイヒマンになる可能性がある。優しくて善良なままに多数の人を殺戮する。とても日常的で普遍的で凡庸な現象なのだ」。

さらに、仮想敵、正当防衛、自衛戦争へと考察が進められていく。

そして、21世紀に入り、人類は新たな位相に足を踏み入れていると警鐘を鳴らしている。「そのファクターはネットだ。ル・ボンは集団の動きを『反復に弱い』『断言に引きずられる』『暗示に感染しやすい』など、徹底して受動の主体として考察した。こうして群衆は、その構成員すべてが意識的人格を喪失して、指導者の断言・反復・感染による暗示のままに行動するようになる。ネットやSNSは、受動のはずの集団が、時に能動の主体になることを可能にした。在日外国人を日本から追い出せという個人の暗くて歪んだ情念が、ネット上では仮想の集団として大きな声になる。おまけにネットでは、自分の顔や名前も隠される、ならば他人を執拗に攻撃しても、自分は安全圏にいることができる。こうして分散していた個の暗くて歪んだ情念が、匿名のままネット上で繋がる(という錯覚を持つ)。少数の連帯が多数派であるかのように思い込む、日陰の存在が陽の光を浴びたくなる。下劣なトイレの落書きを表通りで叫びたくなる。集団は論理を嫌う。論理の基盤となる知識を嫌悪する。知識の基盤となる歴史的体験を軽視する。だからこそ、集団に個を埋没させている多数派にとって、論理や理性は目障りだ。憎悪の意識が立ち上がる。排除したい。デリートしたい。クメール・ルージュや文革の紅衛兵が、知識人を迫害した理由はここにある」。

「ネットの時代を迎えた現在、人類は新たな集団化のリスクを肥大させつつある。特に近年においては、短い罵倒の言葉で完結することができる(論理や理性を必要としない)匿名掲示板やSNSが、こうした傾向を促進する恰好の腐葉土となった。こうして反知性主義は、ネットを媒介にしながら地下茎のように広がり始めている」。「こうした状況に社会が陥ったとき、もっとも警戒すべきは、同じように知性や理性を憎み、さらに不都合な歴史から目を逸らそうとする為政者の出現だ。その存在が社会全体と共振する。為政者や統治権力を批判する勢力は、国賊や非国民として糾弾される。集団は、ある意味で臨界状態にある。ちょっとした刺激で突沸や接種凍結を起こす。一気に相が変わる。そして、何が相転移を起こす物理的刺激になるか、事前には予測できない。イデオロギーや信仰の場合もあるが、もっと些細な物理的刺激の場合もある。これが虐殺のスイッチだ」。

本書は、こう結ばれている。「名前を付けやすく、非日常的で、大きなもの、すなわち国家とか宗教とか思想などといった共同体に属したとき、人は個をなくしかける。これが危険なのだ。意識下で隷従する。自発的なのに自覚がない。ならば暴走まではもうすぐだ。歴史を知ること。今の位置を自覚すること。後ろめたさを引きずること。自分の加害性を忘れないこと。これらがクリアできれば、集団が暴走するリスクはかなり低下する。最悪の事態である虐殺は、簡単には起きなくなるはずだ」。

物理的には軽い本なのに、心理的には非常に重い一冊である。