共産主義の悲劇的な面を雄弁に物語る毛沢東とポル・ポトの殺戮の実態・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2040)】
コウテイダリア(キダチダリア。写真1~3))、キントラノオ(写真4)、ホソバヒイラギナンテン(写真5)が花を咲かせています。カキ(写真6)、ヤマボウシ(写真7)、ナンテン(写真8)、アオツヅラフジ(写真9)、クチナシ(写真10)が実を付けています。夕食を食べようとした時、ドーン、ドーンと大きな音がするので門を出たところ、予告なしのサプライズ花火が上がっているではありませんか。火星をカメラに収めました。
閑話休題、『「悪」が変えた世界史(下)――ランドリューから毛沢東、ビン・ラーディンまで』(ヴィクトル・バタジオン編、神田順子・松尾真奈美・田辺希久子・清水珠代・松永りえ・村上尚子・濵田英作訳、原書房)では、人間の暗黒面を代表する歴史上の人物10人が登場します。
私にとって、とりわけ興味深いのは、殺戮を引き起こした2人の独裁者、毛沢東とポル・ポトです。
毛沢東――共産主義の食人鬼(1893~1976年)――。
「毛はつねに執念深かった。彼を侮辱した人間はだれでも報いを受けることになる」。
「毛がマルクス主義に目覚めたのは1920年代の初めである。その当時、共産主義者はごく少数であった。中国全土で党員にたった57人だった! 共産党の結党大会に出席した代表は13人しかいなかった」。
「毛がどんどんとりこんで血肉化していった暴力だけが、歴史の誕生を助けることができるのだ。暴力は歴史の産婆である、と喝破したのはマルクスであるが、これは正鵠を射ている。ゆえに暴力は必要であり、望ましいとさえいえる。毛は同時に、農村こそが中国の未来の革命の火元となる、と思いいたった」。
「中国共産党の公式の歴史がよぶところの『富田事変』、じつは毛が実行した大規模粛清は、何千人もの党員の命を奪った」。
「1949年から1954年までのあいだに、300~400万人が殺された」。
「(『大躍進』政策は)1958年から1961年にかけて、4万人の知識人どころではない、4000万人もの国民を殺すことになる政策であった!」。
「ALS(筋萎縮性側索硬化症)のために呼吸が困難となって1976年9月9日に北京で死去するまで、毛沢東はナンバーワンでありつづける」。
毛沢東については、それなりに通じているつもりだったが、本書で知ったこともたくさんありました。
ポル・ポト――知られざる虐殺首謀者(1925~1998年)――。
「ポル・ポトはオンカー・パデワット(革命機関)、言い換えればカンボジア共産党(クメール・ルージュ)で『ブラザー・ナンバー・ワン』の暗号名でよばれていた」。
「ずっと以前、カンボジアがフランスの保護領だった頃、ポル・ポトはまだ本名のサロト・サルであった」。
「(ポル・ポトは)オンカー首脳とともにジャングルで秘密の会合を開き、クメール民族を生かされる者と消される者の2グループに分けることを決定していた」。
「なんと『75』の人たち(1975年まで『資本主義』地帯の住民だった人たち)は1日に成人1人あたり最大200グラムのコメしかあたえられず、死んでいったのだ。必要量は400グラムだというのに。ポル・ポトは、彼らをもっとも苦しませるにはどのやり方がいちばんいいか、自問した。餓死がいいか、うなじに一発みまうのは? それとももっと単純にシャベルの先か棍棒で一撃するか。そのほうが弾薬をむだにしなくてすむし、シャベルや棍棒は音を立てないから、いいことづくめだ。まだぬくもりの残る死体から衣服をはぎとるのは、ゲリラで戦っていた頃の習慣だったが、権力についたいまではそこまですることもなかった。でも、かまうものか。ともかく死んでもらう。それが教授であろうと、教師であろうと、医師、弁護士、そしてもちろん旧政府の役人や軍人であろうと、死んでもらう。ちっぽけな商売人でも、死んでもらう。ベトナム人はまっさきに抹殺の対象となり、次が中国人だった。カトリック教徒はカンボジアでは少数派だったが、そのほぼ50パーセントが殺された。イスラムの少数民族チャム族も殺され、殺されないためには豚を飼って食べることを強制された。それでも2人に1人は殺戮された」。
「(1998年4月15日に生涯を終えたポル・ポトは)法廷で裁かれる運命をまぬがれた。彼を断罪できるのは歴史のみということになる。100万、いや150万にのぼる犠牲者の魂は宙に浮かんだままになる。もっとも、どこまでもつつしみ深い同志ポル・ポトは、60万にすぎないと主張するのだが・・・」。
毛沢東とポル・ポトの事例は、共産主義の悲劇的な面を雄弁に物語っています。