榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

いわゆる「司馬史観」を通して、戦争、憲法、文学を考える・・・【情熱的読書人間のないしょ話(139)】

【amazon 『近現代史をどう見るか』 カスタマーレビュー 2015年8月12日】 情熱的読書人間のないしょ話(139)

東京・神楽坂の「キイトス茶房」で開かれた「恋する♥読書部」の読書会に参加しました。キイトス茶房は、本好きの主人が集めた本に囲まれ、本好きの客たちが集う、落ち着いた雰囲気の素敵な空間です。クラシックが静かに流れています。おかげで、読書会の情報・意見交換が盛り上がり、新たな企画も誕生しそうです。

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閑話休題、憲法解釈が問題となっている今、司馬遼太郎は戦争、憲法をどう考えていたのかが気になったので、書棚から『近現代史をどう見るか――司馬史観を問う』(中村政則著、岩波ブックレット。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)を久しぶりに引っ張り出し、読み返してみました。

先ず、司馬は日露戦争の性格をどう見ていたのでしょうか。「問題の焦点は、日露戦争は祖国防衛戦争であったか、それとも帝国主義間戦争であったかである。・・・司馬は『朝鮮がロシア領になってしまうという恐怖がこの時代の日本にはあった。もし朝鮮がロシア領になってしまえば、寝ても覚めても横腹に匕首(あいくち)を突きつけられているようなものでした。この恐怖を理解できなければ、当時の日本の立場はわかりにくい』と述べている。私も、当時の日本人のなかに根強い『恐露病』があったと思う。恐露→征露感情が日本国民の間にあったことは疑いないが、ロシアが実際に朝鮮を侵略し、さらに日本にも攻め込んでくる可能性があったかというと、それはまた別問題である。この二つを混同することは歴史認識としても正しくない。むしろ、最近の研究はこうした過度の『ロシア脅威論』に否定的なのである。これは、日露戦争を一義的に『祖国防衛戦争』と認定できるか否かにかかわる重大な論点」だと記されています。

「現在でもそうだが、『仮想敵国=脅威論』というのは、過剰に宣伝される傾向にある。ましてや東アジアが欧米帝国主義の『草刈り場』になった20世紀初頭にあっては、『ロシア脅威論』が日本人のなかに浸透したとしても、おかしくない。しかし、それには『つくられた脅威論』という側面もあったのである。となると、日露戦争が日本側の祖国防衛戦争であったとする立論はいちじるしく説得力を欠くことになる。そのためか、司馬は『強いてこの戦争の責任者を四捨五入してきめれば、ロシアが八分、日本が二分である』と書いて、日本の側の侵略性を認めざるをえなかった(なぜ、ロシア八分、日本二分なのか、その根拠は不明)」。しかし、司馬は日露戦争後の日本の悲劇的な結末を見通していたのです。「彼は、こう書いている、『明治末年から日本は変質した。戦勝によってロシアの満州における権益を相続したのである。がらにもなく『植民地』をもつことによって、それに見合う規模の陸海軍を持たざるを得なくなった。『領土』と分不相応の大柄な軍隊をもったために、政治までが変質して行った。その総決算の一つが『満州』の大瓦解だった。この悲劇は、教訓として永久にわすれるべきではない』。あるいは、『日露戦争はロシアの側では弁解の余地もない侵略戦争であったが、日本の開戦前後の国民感情からすれば濃厚にあきらかに祖国防衛戦争であった。が、戦勝後、日本は当時の世界史的常態ともいうべき帝国主義の仲間に入り、日本はアジアの近隣の国々にとっておそるべき暴力装置になった』」。

「私もロシアのバルチック艦隊が日本まで攻めてきたことを考えれば、日露戦争が『祖国防衛戦争』としての側面を持っていたと思う。もし、日本海海戦で東郷平八郎の連合艦隊が負けていれば司馬も言うとおり、日本はロシアの属邦になっていただろう。だが、この側面だけをみただけでは日露戦争の全体像は見えてこない。・・・日露戦争は朝鮮の完全植民地化と不可分であった。すなわち、1905年11月の第二次日韓協約で日本政府は韓国の外交権を取り上げて『保護国』化し、1907年の第三次日韓協約では韓国の軍隊を解散させた。つまり、軍事権を取り上げたのである。・・・さらに重要なのは、台湾・朝鮮という植民地を持つことによって、軍部の自己肥大化が進行したことでる。・・・司馬の『坂の上の雲』や日露戦争についての文章を読んで不満なのは、この戦争と朝鮮問題との不可分の関係を深刻に考えていないことにある。それと同時に『坂の上の雲』というタイトルが暗示しているように、日露戦争勝利で坂の上を登り詰めた日本は、以後、坂を転がり落ちるように転落していくという時代イメージがある。それ故に司馬には、大正期について触れた文章はほとんどない。『大正史の欠落』、これが司馬史観のもう一つの特徴であった」。

次に、司馬は太平洋戦争をどう見ていたのでしょうか。「あの戦争に対する司馬の批判は予想外にきびしいものであった。『<大東亜共栄圏>などとは、むろん美名です。自国を亡ぼす可能性の高い賭けを、アジア諸国のために行うという――つまり身を殺して仁を為すような――酔狂な国家思想は、日本をふくめて過去においてどの国ももったことがありません』。『南方進出作戦――大東亜戦争の作戦構想――の真の目的は、戦争継続のために不可欠な石油を得るためでした。蘭領インドネシアのボルネオやスマトラなどの油田をおさえることにありました』。『あの戦争は、多くの他民族に禍害を与えました。領地をとるつもりはなかったとはいえ、・・・侵略戦争でした』。『あの戦争が結果として戦後の東南アジア諸国の独立の触媒をなした、といわれますが、たしかにそうであっても、作戦の真意は以上のべたように石油の獲得にありその獲得を防御するために周辺の米英の要塞攻撃をし、さらには諸方に軍事拠点を置いただけです。真に植民地を解放するという聖者のような思想から出たものなら、まず朝鮮・台湾を解放していなければならないのです』。・・・司馬には『昭和史への痛覚』があった」。

さらに、司馬の明治憲法・天皇観はどのようなものだったのでしょうか。「『昭和初年、軍とその同調者は、(明治)憲法について異常な解釈をしたのである。三権のほかに統帥権があるとし、この魔法によって張作霖の爆殺(昭和3年)という謀略をやり、つづいて満州事変、上海事変をやることで三権を無視しつづけ、ついには統帥権によって日本国そのものを壟断した。そのあと国そのものをつぶした』。・・・要するに、司馬はすべての悪の根源は昭和になってからの統帥権にあって、天皇にいっさいの責任はないというのである。しかし、統帥権を支える制度とイデオロギーは、明治期にできていた。このことを見ない司馬史観では、昭和になって突如、暗転が起こったように読めるが、実は『明るい明治』の時代に昭和の破綻の芽は準備されていた。これが歴史学界での一般的な見方であろう」。

「要するに、ここでも問題の根源は『明るい明治』『暗い昭和』の二項対立史観にあって、『明るい明治』を明治憲法で代表させ、『暗い昭和』を統帥権に集約させるという、単純化をあえて彼はおこなっているのである。言い換えれば、『昭和』を暗く描くぶんだけ『明治』を明るく描くが、日露戦争勝利以後は『転落』に向かうと見るから、『大正』の評価はそのぶんだけ低くなる、こうした歴史認識の構造をもつのが司馬史観の特徴なのである」。

最後に、司馬の文学に対する姿勢について見てみましょう。「彼は優しくてあたたかみのある作家であった。何よりも、自分の役割は読者を喜ばせ、元気をあたえることにあると考えていた。高度経済成長期に作家として名を成した人にふさわしく、サラリーマンなどの中産階級や管理職の心情にぴったりくる書き方を心得ていた。読者にどうすれば希望と生きる力をあたえられるかを司馬は知り抜いていた。・・・これに加えて、司馬の美学が歴史の事実の選択を恣意的で、作為的なものにした。日本人にとっては辛くて暗い事件は意識的に切り捨てようとした。それを書けば、読者が逃げる、読者を満足させることができないということを彼は知り抜いていたのである」。

たった61ページの小冊子ながら、いろいろなことを考えさせられる本なのです。