榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

森銑三が28~29歳の時に執筆した歴史上の人物の評論・・・【情熱的読書人間のないしょ話(830)】

【amazon 『偉人暦』 カスタマーエrビュー 2017年7月30日】 情熱的読書人間のないしょ話(830)

ヘイケボタル幼虫飼育ヴォランティアとして8カ月間、育ててきた幼虫たちを田んぼに放流したのは6月24日のことでした。ほぼ1カ月後の昨晩がヘイケボタル観察会だったのですが、雨天のため中止になってしまいました。今宵こそ成長したヘイケボタルたちに再会したいという私の願いが通じたのか、田んぼのあちこちでヘイケボタルが点滅しているではありませんか。撮影後、田んぼに戻してやりました。因みに、本日の歩数は10,355でした。

閑話休題、『偉人暦』(森銑三著、中公文庫、上・下巻)は、屹立する在野の歴史家・森銑三が図書館員であった28~29歳の時に執筆したものです。

本書で取り上げられている歴史上の人物350余名の中には、私の知らない人物もかなり含まれているので、いろいろと勉強になりました。

後年の重厚緻密な論考とは異なり、この軽快な随筆集からは著者の若々しい息吹が伝わってきて、親近感を覚えてしまいました。

池野大雅については、このように記されています。「彼の画は古今独歩の称がある。しかし私は画よりも彼の人物がなつかしい。その画に一点の俗気もないのは、即ち彼の人格に俗気がなかったからだ。・・・そして更に一そう羨しいのは、彼と玉瀾女との睦まじさだ。ひどい貧乏暮しをしながら玉瀾と三味線を弾き、古風な唄を謡った。文字通り琴瑟相和した好夫婦であったのだ」。

一方、玉瀾女については、こうです。「町子、夫並に柳里恭に学んで画をよくし、その号を玉瀾といった。二人はめずらしい超俗的な夫婦であった。米櫃空しけれども意となさず、夫の大雅が三味線を弾いて唄えば町子の玉瀾も筝を奏で、これに和し、軒の傾いた家の内には、常に和気が溢れていた」。これぞ、理想の夫婦像ですね。

評価が分かれがちな新井白石については、率直に高く評価しています。「学の人であったと共に実行の人であった、曠世の偉人新井白石・・・彼の政治的生涯は甚だ短かったけれど、その間には実に光彩の陸離たるものがあった。彼は力の人だった。強い強い箇性の人だった。それだけ端から怖れられた。鬼の綽名を負わされた。ことに木門出身の彼は林家から忌まれた。四面に敵を持った彼は、彼を愛し彼を重んじた家宣の薨後、忽ち失墜の憂目を見るに至った。・・・しかもそうした悲惨な境遇にあって、彼は老衰と病魔と闘いながら著述の筆を進めていた。もとより筆耕の助けもなく、自ら稿し、自ら浄書し、兀々として倦むところを知らなかった」。

緒方洪庵については、その人間性が活写されています。「天保9年、洪庵28歳にして大阪に開業し、且つ私塾を起して諸生を教授した。その門からは、橋本左内が出た。大村益次郎が出た。福沢諭吉が出た。その他数知れぬほどの名士が輩出した。緒方塾は名実共に、当時全国第一の蘭学塾だった。洪庵、資性は清白、病者に接するにも塾生を導くに懇切をきわめた。福沢翁はその『福翁自伝』の中に当時を追想して、師弟の間は正しく親子の通りであった。自分等は真実緒方の家の者のように思い、また思わずにはいられなかったといっている」。

古田織部正は只の茶人ではなかったことが分かります。「秀吉の懐に飛び込んで、猛将達を手玉に取った千利休は、もとより只者ではなかったが、その弟子古田重然(=織部正)は、只者でなかった点に於ては、或は利休を凌駕する。・・・彼はただの茶人ではなかった。大阪夏の陣に、大阪方と謀を合せ、家康、秀忠の都を立った跡で、主上を取りまいらせ、二条の城を襲い取って、洛中ことごとく焼き払い、天下を再び豊臣の手に返そうとした。不幸にして謀洩れ、鳥居成次の手に捕えられて、元和元年6月11日、切腹に処せられたが、事の当否はしばらく措き、当時家康の鼻息を窺うに汲々たりし諸将の間に、こうした大事を目論んだ一重然を見出すことの出来たのは実に痛快とすべきではないか? 重然、平生茶碗茶入の無疵なのをおもしろくないと、わざわざ割った上で繕うて用いた」。

二宮尊徳に対する人々の誤解を解こうと努めています。「(尊徳)翁は一部の人々からあまりに尊信され、偶像化されてしまったために、却って翁を食わず嫌いに、乾からびた、血の気の乏しい、湿おいのない人間のように思っている人が多いようだ。翁をそう解釈している人に、私は先ず『二宮翁夜話』の繙読を勧めたい。力強い思想を通して、生々とした翁の姿は、その書の随処に見出されるであろう。翁は学者ではなかった。文字を通さずに、天地自然の書を読んだ哲人であった。強い強い信念の人だった。所信に向って邁進する時は、千万人といえどもわれ往かんの意気を有する豪傑だった。翁をただ消極的な道徳ばかり説いていた、せせこましい人のように思ったら大間違いだ」。