榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

世界史はモンゴル帝国とともに始まった・・・【情熱の本箱(62)】

【ほんばこや 2014年12月14日号】 情熱の本箱(62)

「世界史はモンゴル帝国とともに始まった」と主張する本があると教えられ、その根拠が無性に知りたくなって、『世界史の誕生――モンゴルの発展と伝統』(岡田英弘著、ちくま文庫)を手にした。

著者の結論は、「歴史を持つ2大文明である地中海=西ヨーロッパ文明と中国文明は、それぞれ前5世紀と前2世紀末に固有の歴史を産み出してから、12世紀に至るまで、それぞれの地域でそれぞれの枠組みを持った歴史を書き続けていた。それが13世紀のモンゴル帝国の出現によって、中国文明はモンゴル文明に呑み込まれてしまい、そのモンゴル文明は西に広がって、地中海=西ヨーロッパ文明と直結することになった。これによって、2つの歴史文化は初めて接触し、全ユーラシア大陸をおおう世界史が初めて可能になったのである」というものである。

こういう考え方の背景には、日本の歴史学に対する著者の危機感が存在している。現代の日本の歴史学には、日本史、東洋史、西洋史はあるが、真の意味の世界史はないとして、「その理由は、日本の歴史学が研究対象としなければならなかった3つの文明、日本文明・中国文明・地中海=西ヨーロッパ文明が、それぞれまったく異なった歴史文化を持っていたことである。その根本的な差異に引きずられて、本来ならば一元的な世界観に立つべき歴史学が、分野ごとの違った形を取るようになってしまったのである」。「前5世紀にヘーロドトスが創り出した地中海型の歴史観によっても、前2世紀末に司馬遷が創り出した中国型の歴史観によっても、現実の世界史が割り切れないことは、冷静に考えれば当たり前のことであるのに、それを何とか割り切ろうと、大多数の日本の歴史学者は空しい努力を繰り返して、いつも不満足な結果に終わっている」と手厳しい。

それでは、どうすればいいのか。「ヘーロドトス(の『ヒストリアイ』)と『旧約聖書』、(『新約聖書』の)『ヨハネの黙示録』に由来する地中海=西ヨーロッパ型の歴史の枠組みと、『史記』と『資治通鑑』に由来する中国型の歴史の枠組みをともに乗り越えて、単なる東洋史と西洋史のごちゃ混ぜでない、首尾一貫した世界史を叙述しようとするならば、とるべき道は一つしかない。文明の内的な、自律的な発展などという幻想を捨てて、歴史のある文明を創り出し変形してきた、中央ユーラシア草原からの外的な力に注目し、それを軸として歴史を叙述することである。この枠組みでは、13世紀のモンゴル帝国の成立までの時代は、世界史以前の時代として、各文明をそれぞれ独立に扱い、モンゴル帝国以後だけを世界史の時代として、単一の世界を扱うことになる。これを実行するためには、2つの歴史のある文明が、これまでに自己の解釈、正当化のために生み出してきて、歴史家が自明のものとして受け入れてきた概念や術語を一度捨てて、どちらの文明に適用しても論理の矛盾を来さない、筋道の通った解釈を見つけだすことが必要である。こうした単一の世界史の叙述は決して不可能ではない」。著者は、本書がそうした叙述の最初の試みだと胸を張っている。

モンゴル帝国の概観を眺めておこう。「12世紀に遼に取って代わったジュシェン(女直、女真)人の金帝国(1115~1234年)は、宋から淮河以北の華北の地を奪う。そしてその金帝国の同盟部族であったモンゴルのチンギス・ハーンがモンゴル帝国を建設し、息子のオゴデイ・ハーンは金帝国を滅ぼす。孫のフビライ・ハーン(元の世祖)は、華中・華南に残った南宋朝(1127~1276年)を滅ぼす。こういうぐあいに、中央ユーラシア草原では、6世紀以来、一連の遊牧帝国の系列が成長を続けて来て、とうとう13世紀に至って、隋・唐の系列の中国のなごりを、完全に呑み込んでしまったのである」。

著者の世界史に対する独創的な姿勢は傾聴に値するが、これ以外の点でも、本書は私にとって文字どおり「宝の山」だったのである。

その第1の宝――中国の歴代の王朝は、元、清など一部を除き、中国人による王朝ばかりと思い込んできたが、実際は、意外に多くの王朝が、元来、非中国人だった遊牧民やトルコ系の人々によるものだというのだ。「中国でも、秦・漢時代の第1の中国の滅亡のあと、隋・唐時代の第2の中国を形成したのは、中央ユーラシア草原から移動して来た鮮卑などの遊牧民であった。この鮮卑系の第2の中国と競争して、次第に中国を圧倒し、最後に中国を呑みこんでしまったのは、中央ユーラシア草原の一連の帝国、トルコ・ウイグル・キタイ・金・モンゴルである。モンゴル帝国の支配下に中国は徹底的にモンゴル化して、元朝・明朝・清朝の時代の第3の中国が形成された」。「鮮卑系の唐は880年、黄巣の反乱軍に首都の長安(西安)を攻め落とされて弱体になり、間もなく907年には黄巣の一味の朱全忠(後梁の太祖)に乗っ取られて滅亡した。華北を支配した後梁は、わずか14年でトルコ系の後唐に滅ぼされる。その後唐は、またわずか13年後の936年には、キタイ(契丹)帝国の介入で滅亡し、同じくトルコ系の後晋が華北を支配する。また11年後には、再びキタイが介入して、後晋は滅亡し、トルコ系の後漢がこれに代わったが、わずか4年しか続かなかった。後漢の後は、中国人の後周が10年間、華北を支配する。この混乱の半世紀が、五代と呼ばれる時代であり、そのうちの3つの王朝がトルコ系であった」。王朝の興亡の目まぐるしさもさることながら、トルコ系の存在感の大きさには目を瞠ってしまう。

第2の宝――モンゴル帝国が諸国の国民を創ったという指摘には驚かされた。「モンゴル帝国が13世紀から後の世界に残した遺産は、中央ユーラシアの遊牧民だけではない。ユーラシア大陸の定住民も、多くはモンゴル帝国の影響を受けて、現在見られるような国民の姿を取るようになった。その顕著な例は、インド人であり、イラン人であり、中国人であり、ロシア人でありトルコ共和国のトルコ人である」。東は日本海・東シナ海から、西は黒海・地中海に至る東アジア・北アジア・中央アジア・西アジア・東ヨーロッパを版図とする史上最大の帝国・モンゴル帝国の子孫たちが建国した国々だけでなく、上に挙げた諸国も、1206年のチンギス・ハーンの即位に始まったモンゴル帝国の継承国家だというのだ。

第3の宝――「元朝は、東アジアの多くの地域を統合した大帝国だったが、一番重要な地域はもちろんモンゴル高原で、中国は元朝の植民地の一つに過ぎなかった」。元は中国に対する征服王朝ではなく、中国は元の植民地に過ぎなかったと言われて、目から鱗が落ちたのは、私だけだろうか。

第4の宝――「世界広しといえども、自前の歴史文化を持っている文明は、地中海文明と、中国文明の2つだけである。もともと歴史というもののない文明の代表は、インド文明である。・・・歴史のない文明は、インド文明だけではない。アメリカ大陸の2つの大文明、メソアメリカのマヤ文明と、南アメリカのアンデス文明は、どちらも歴史のない文明である。・・・(地中海文明と中国文明)以外の文明に歴史がある場合は、歴史のある文明から分かれて独立した文明の場合か、すでに歴史のある文明に対抗する歴史のない文明が、歴史のある文明から歴史文化を借用した場合だけである。たとえば日本文明には、668年の建国の当初から立派な歴史があるが、これは歴史のある中国文明から分かれて独立したものだからである。・・・イスラム文明が、歴史のある地中海文明の対抗文明として、ローマ帝国のすぐ隣りに発生したことである。・・・歴史は、強力な武器である。歴史が強力な武器だからこそ、歴史のある文明に対抗する歴史のない文明は、なんとか自分なりの歴史を発明して、この強力な武器を獲得しようとするのである。そういう理由で、歴史という文化は、その発祥の地の地中海文明と中国文明から、ほかの元来歴史のなかった文明にコピーされて、次から次へと『伝染』していったのである」。この説は説得力に満ちている。

久し振りに、スケールの大きな歴史書に出会えた幸運を噛み締めている。