榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

奇々怪々な画家たちの作品と情念との不思議な関係・・・【情熱の本箱(23)】

【ほんばこや 2014年4月12日号】 情熱の本箱(23)

奇想の系譜――又兵衛~国芳』(辻惟雄著、ちくま学芸文庫)は、44年前に刊行された書物であるが、未だに輝きを失っていない。長らく下手物扱いされてきた岩佐又兵衛、伊藤若冲、曽我蕭白、長沢芦雪、歌川国芳といった江戸期の表現主義的傾向の画家たちを、奇矯(エキセントリック)で幻想的(ファンタスティック)な「奇想の画家」と位置づけた記念碑的著作だからである。

「『奇想』という言葉は、エキセントリックの度合の多少にかかわらず、因襲の殻を打ち破る、自由で斬新な発想のすべてを包括」するもので、「傍系とか底流とかいった形容はあてはまらず、むしろ、近世絵画史における主流といってさしつかえないほどである。そしてまた、これら『主流』を背後から動かし、推し進めている大きな力が、民衆の貪婪な美的食欲にほかならないことも指摘されてよいだろう。ここにあげた6人の画家は、そうした『主流』の中での前衛として理解されるべきである」と、著者が述べている。この著者の主張が正しいことを、本書に数多く収載されている画家たちの作品が雄弁に物語っている。

「(岩佐又兵衛の代表作『山中常盤』の)絵巻の特徴は、まず彩色にある。人物や建物などには、群青、緑青、臙脂、丹、黄土などの原色による、けばけばしい配色に、金銀泥でこまかな文様が加えられ、はでな装飾効果が強調されている。そして、そのような過剰なまでの装飾性が、独特な表現的性格とも結びついているのである。人物や建物や樹木などは全体に大きく力強く描かれており、とくに人物の顔や手足や姿態のクセのある表現が印象的である。一種ふてぶてしい粗放さと、同時代の風俗画に通じる卑俗さが、全巻を通じて見受けられる。なかでもショッキングなのは、巻四の常盤(御前)殺しの場面である」。

又兵衛は辻によって再発見・再評価されたといっても過言ではないが、その後の研究成果は『岩佐又兵衛絵――浮世絵をつくった男の謎』(辻惟雄著、文春新書)に凝縮している。

「(伊藤)若冲は、(円山)応挙に先行して写生主義を提唱した画家ということになりそうである。・・・中国画の素養を持つ彼が、ひとたび手本から離れ、『物』との独自な対話をはじめるとき、そこには、全く若冲自身のものとしかいいようのない、特異な映像の世界が現出するのである。・・・ユーモアとグロテスクのカクテルされた、何とも不思議な表情がある・・・かたちや色の幻想的な美しさをとらえている・・・はっきり刻みこまれているのは、尽きることのない若冲の奇想とユーモア――当時の人の評を借りれば『物好き』の精神である」。

「職業がら、日本や中国の古画に関しては、いろいろ変わったものを見る機会も少なくないわたしだが、これまで想像したこともない猛烈なしろものに最近お目にかかった。図版に載せた曽我蕭白の『群仙図屏風』がそれである。・・・(『寒山拾得図』の)人間とも獣ともつかぬ醜怪な巨人の姿は見る者の背筋を寒くさせる。グロテスクという点では、日本の水墨人物画史上類を絶しており・・・鉱物質とでもいうべき乾いた非情な想像力(イマジネーション)、鬼面人を驚かす見世物精神、怪奇な表現への偏執、アクの強い卑俗さ、その背後にある民衆的支持・・・」。

「厳島神社の『山姥図』にいたっては、漱石の『草枕』の中でもふれられており、江戸のグロテスク絵画の傑作として定評のあるものだけに、(長沢)芦雪の全作品のなかでもっとも劇的な緊張感のある作品であって、老醜のすさまじさ、いやらしさを、これほどの正攻法で描き出した日本画の例を他に知らない」。

老境に入った私としては、この「山姥図」は目にしたくなかったというのが、私の偽らざる思いである。

「(歌川)国芳は、(葛飾)北斎に劣らぬ鋭い構図感覚に加えて、洋風画の手法をさらに積極的にとり入れることにより、この課題に見事な回答を与えたとされるのだが、わたしがとくに指摘したいのは、国芳特有の幻想的資質が、ここにあらわれている点である。・・・手法の劇的なアンバランスである。近代と前近代との、この唐突な接触がもたらす無気味な緊張感が、国芳の計算に入っていたとすれば恐れ入るよりほかない」。

奇想の画家たちの作品を鑑賞する前に、この本に目を通せば、理解がさらに深まることだろう。