自衛の意識こそが戦争を引き起こすという指摘は正しいか・・・【情熱的読書人間のないしょ話(129)】
エドワード・アーディゾーニの、大量の本に囲まれ一心に読書する少女の絵は、私の最も好きな絵の一つです。『ムギと王さま――本の小べや(1)』(エリナー・ファージョン著、石井桃子訳、岩波少年文庫)の挿し絵ですが、読書の魅力が伝わってきます。
閑話休題、『すべての戦争は自衛意識から始まる――「自分の国は血を流してでも守れ」と叫ぶ人に訊きたい』(森達也著、ダイヤモンド社)は、集団的自衛権に賛成の人にも反対の人にも読んでもらいたい一冊です。
「すべてが焼け野原になった後に――世界中の軍隊は自衛のために存在し、そして結果的には他国を侵略する。専守防衛を謳うだけでは意味がない。結局は自衛の意識が戦争を引き起こす。だからこそかつてこの国は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』と謳った九条第一項に、以下の第二項を続けた。<前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない>。・・・人は自衛のつもりで人を殺す。殺される。すべてが焼け野原になってから天を仰ぐ。なぜこんなことになってしまったのかと呻きながら」。
「『自衛』を大義にして人は人を殺し、戦争を起こしてきた」。「我が国は他国に侵略などしない。でも世界には悪い国もある。その悪い国の軍隊が攻めてきたときのために、我が国は軍隊を常備する。兵器を所有する。つまり抑止力。そういうことになる」。「人は自衛を大義にしながら人を殺す。武器を持っていては過剰防衛になりやすい。ならば武器を捨てよう。この国は70年前にそう決意した。自衛はもちろんできる。でも武器を使った自衛はしない。ご近所はほとんど銃を持っている。だからこそ我が家は銃を捨てる。きっといつかはご近所も銃を手放すはずだ。怖いけれどその先陣となる。だって現実には、誤射や乱射や過剰防衛のほうが、銃で脅されることよりはるかに多いのだから。しかし解釈は時代と共に変わる。この国はいつのまにか武器を持ってしまった。でも過剰な防衛だけはしない。家には置いてあるけれど、外出するときは持ち歩かない。そう決めていたはずなのに、少しずつ変わってゆく。武器を持って外に行こうとの声が高くなる。仲の良い家が危ない目にあっているならば、武器を持って助けに行くべきだと主張する人が多くなる」。
「『自分の国は血を流してでも守れ』と叫ぶ人に訊きたい」。
「今のNHKの報道はひどい。まさしく右と言われたら右と言うレベルだ。でも番組制作は頑張っている。急激に強くなった逆風に歯を食いしばりながら作り続けている製作者を、僕はたくさん知っている」。
「最大の自衛とは、安全を脅かす存在を洩らすことなく消滅させることである」。
著者の主張は、いずれも説得力がありますが、私がとりわけ強い印象を受けたのは、東條英機の遺言と、国会審議における吉田茂の答弁です。
「彼ら(現政権)の歴史認識は不十分だ。戦争のメカニズムが決定的にわかっていない。自衛の意識が戦争を引き起こすとの認識がない。抑止力が時として仇となって人々に牙を剥くことへの実感がない。だから解釈を変えることに摩擦がない。つるつる滑る。目先の経済や支持率を優先する。『日本を、取り戻す』と安易に口にする。九条の思想は確かに(現時点において)非現実的ではあるけれど、これ以上ないほどにラジカルで、強力な戦争へのアンチテーゼであることに気づいていない。<私は、戦争を根絶するには、欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国はいずれも自国の存立や、自衛権の確保を説いている。これはお互いに欲心を放棄しておらぬ証拠である。国家から欲心を除くということは、不可能のことである。されば世界より戦争を除くということは不可能である>。引用したのは、1948年12月22日夜、自らの死刑執行の数時間前に、教誨師の花山信勝の前で東條英機が朗読した遺言の抜粋だ」。
「自衛の意識こそが戦争を引き起こす――現行憲法の公布前、国会で吉田茂首相に『戦争には侵略の戦争と自衛の戦争の二つがあり、その双方を否定するのはおかしい』と憲法草案について質問したのは、共産党の野坂参三議員だった。これに対して吉田首相は、『自衛の意識が戦争を起こす』と答弁した。すなわち九条の精神だ。この吉田の視点は、とてもリアルで正しい。植民地主義が終焉して以降、この世界で勃発する戦争のほとんどは、過剰な自衛意識がもたらした争いだ」。