『百人一首』は、定家の『百人秀歌』が勝手に改変されたものだった・・・【情熱の本箱(143)】
私は、百人一首カルタを取ることには興味がない。いわんや、相手よりも速く取る技法などは論外である。ただし、百人一首の歌そのものと詠み人には大いに関心がある。
『百人一首の謎を解く』(草野隆著、新潮新書)は、長年、溜まっていた私の百人一首に対する疑問を一挙に解決してくれた。この本は新書という分量の制約を見事に乗り越えている。
著者は、百人一首についての謎を12項目にまとめている。①いつできたのか、②誰が作ったのか、③何のために作られたのか、④神や神話時代の歌、また仏、高僧の歌がないのはなぜか、⑤賀の歌、釈教の歌がないのはなぜか、⑥不幸な歌人の歌が多いのはなぜか、幸福な歌人の歌が少ないのはなぜか、⑦和歌史に残るような実績のない歌人の姿が見えるのはなぜか、⑧「よみ人しらず」の歌がないのはなぜか、⑨その歌人の代表作が撰ばれていないのはなぜか、⑩後鳥羽院、順徳院の歌が、なぜ入っているのか、⑪『百人秀歌』と『百人一首』の関係はどのようなものなのか、⑫近代の研究者は、なぜ『百人秀歌』と『百人一首』の関係について理解を誤ったのか――であるが、③、④、⑤、⑧、⑫はこれまであまり問題とされてこなかったと注記されている点に著者の問題意識が窺える。
これらの謎が実証的に解かれていく過程は、推理小説も顔負けと言っていいほどスリリングである。しかし、一番重要な謎は、誰が何のために作ったのかであり、この大きな疑問が解明されれば、その他の謎も明らかになるだろう。
そこで、著者は、藤原定家が息子・為家の妻の父・蓮生に頼まれて、蓮生の嵯峨中院山荘の「母屋」つまり寝殿あるいは東側の対屋の障子(現在の襖)に貼る和歌を選んだリストの草稿が『百人秀歌』(昭和26年に発見された)であり、定家、蓮生の死後、山荘を蓮生から受け継いだ為家が、『百人秀歌』に歌順などいくつかの変更を施したものが、後世の室町時代以降、世に広まった『百人一首』の原形となった――という説得力のある仮説を提出している。
「日記(定家の『明月記』)の記述から、藤原定家によって、蓮生なる僧の山荘のために障子の色紙形(しきしがた)が書かれたことが確かであり、それは『百人一首』の歌であろうということになっているのである」。しかし、「蓮生の山荘の障子色紙に書かれた和歌と、現在の『百人一首』の和歌が同じものであるという確証は全くないのである」。
この蓮生とはいかなる人物なのか。「蓮生は、宇都宮に根拠を置く武士である宇都宮氏の棟梁としての一生を持つ一方で、深く浄土信仰に帰依した僧侶としての人生という、二つの側面を持つ人である。それに歌人としての側面が加わることになる」。蓮生は、鎌倉幕府の執権・北条泰時と親密な関係にあった有力かつ富裕な御家人であると同時に、法然の孫弟子に当たる宗教界の大立者なのである。
「蓮生は、その山荘の阿弥陀堂を浄土と見立てて、池を隔てた母屋を現世と見立てたのだろう。そして、そこを古今の歌人たちの詠った和歌で飾ろうとしたのである」。「蓮生は、苦の中に死した今昔の歌人たちの述懐と、さまざまな歌人による四季の景物の和歌が合わせて織り込まれた、古今の歌人の障子という構想を案出したのではないだろうか。つまり、蓮生の別荘の障子は、歴史の時間軸の中でそれぞれに苦に満ちた生を生き、すぐれた和歌を残した人々の『苦の集積』を空間的に再現し、その歌人たちに思いを馳せ、その歌人たちを彼岸の阿弥陀如来の浄土に導くべく祈念し、追善供養するという装置なのである。ここに住む人や、ここを訪れた人は、色紙の和歌を通じて、折にふれてその歌人の生を思い、時にその説話を語り合うことになる。その行為がすなわち鎮魂であり、祈りとなるということであろう。『百人秀歌』に、説話的な歌人、特に不幸な歌人が目立つ理由は、実にこの目的に沿った撰歌の結果ということだと考えられる」。『百人秀歌』は浄土教の世界観に基づいて撰ばれたのである。
「定家が蓮生に提示した障子和歌の草稿が『百人秀歌』であると推定できるが、それがそのまま障子色紙になったのではない。草稿は施主蓮生の要請による改変を経、またわずか一首についてであるが、定家自身による修正も行われて清書され、それが障子に貼られて完成となった。その様相を、残っている『百人秀歌』と『百人一首』を比較することによって推測することができる」。この障子和歌が完成したのは1235年のことである。
『百人一首』の基となった『百人秀歌』は、決して単なる王朝秀歌撰ではなく、僧侶・蓮生の発想と歌人・定家の工夫や仕掛けが化学反応を起こして相乗効果を発揮した類い稀な作品なのだ。それを、父・定家には及ぶべくもない歌人・為家が定家の工夫や仕掛けを台無しにし、単なる秀歌撰『百人一首』に作り変えてしまったのである。