榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

邪馬台国九州説と近畿説が面と向かって激突した結果は――・・・【情熱の本箱(332)】

【ほんばこや 2020年8月5日号】 情熱の本箱(332)

研究最前線 邪馬台国――いま、何が、どこまで言えるのか』(石野博信・高島忠平・西谷正・吉村武彦編、朝日選書)から教えられることが、いくつもあった。

邪馬台国近畿説の石野博信、西谷正、吉村武彦と、九州説の高島忠平の面と向かっての論戦が収録されているので、自ずと両説の強み、弱みが浮き彫りになっている。

「近年、この論争に関わる重要な考古学的発見が相次いでいます。平成21(2009)年11月には奈良県纒向遺跡で大型の掘立柱建物が発掘され、『女王卑弥呼の居館跡か』と大きく報道されました。・・・三輪山の麓に広がる纒向遺跡の周辺には、卑弥呼の墓かと推測されている箸墓古墳が存在するなど、以前から邪馬台国の有力な候補地とされてきた地域です。この纒向遺跡の大型建物の発見により、近畿説が一躍勢いづきました。しかしながら一方の北部九州でも重要な資料が蓄積され続けています。『奴国』の中心集落である福岡県須玖遺跡群からは、さまざまな青銅器を鋳造した工房が発見されていますし、『伊都国』の王墓があったとされる三雲・井原遺跡からも、漢の鏡や膨大な数のガラス玉を副葬した墓が発見されています。また大規模な環濠集落である吉野ヶ里遺跡の調査によって、弥生時代のクニの具体的な姿が明らかになってきました」。

「2000年を超える論争に決着はつくのでしょうか? 近年、文献史学者である平野邦雄は、『魏志倭人伝』を読む場合、それだけではなく、『魏志』の倭人伝以外のほかの諸国の動向、それと同時期の『後漢書』、さらにはその後の中国の正史『晋書』『宋書』などを踏まえ総合的に検討する必要があり、それらの内容を踏まえると、狗邪韓国に始まり、狗奴国に至るまでの倭の国々は『南北の軸線』で記述されたと考える必要があるとし、邪馬台国は九州にあるという興味深い考え方を詳説しました」。

九州説の高島の主張のポイントは、▶卑弥呼の鏡は後漢(25~220年)系の鏡であること、▶北部九州の環濠集落が「魏志倭人伝」の記述と一致すること、▶国の成立過程や領域が明らかであること、▶弥生時代において中国との交渉があったことを示す遺物が北部九州に集中して出てくること、▶邪馬台国時代の3世紀に大規模環濠集落が成立し展開すること、▶鉄の流通の中心が九州であること、▶北部九州の副葬品「鏡」「玉」「剣」が、のちに近畿の古墳時代の葬制に取り入れられること(=これは邪馬台国東遷説の根拠とされるが、東遷説も九州説に含められる)――の7つである。

近畿説の吉村が、このように語っている。「『書紀』の編者は、『魏志』を通じて倭国に卑弥呼がいたことは知っていたが、ヤマト王権の王の系譜や伝承のなかには卑弥呼がいなかった、と解釈するのが一番いいのではないかと思っています。ところで『書紀』が、あえて卑弥呼を神功皇后にあてたことは、『卑弥呼が女性であるので、天皇としては適当でない』という判断ではないでしょう。『書紀』が編纂される前の日本では、7世紀代に女帝が輩出しています。また、8世紀にも女帝が出現しています。したがって、卑弥呼をはじめ『倭の女王』の存在は、何も問題はありません。『倭の女王』の記述から、『書紀』では卑弥呼を神功皇后にあてざるをえなかったのは、苦肉の策ではないでしょうか。ヤマト王権の伝承に卑弥呼が含まれていれば、別の扱いになったと思います。つまりヤマト王権の伝承には卑弥呼がなかったと思います。したがって、卑弥呼の没後に、ヤマト王権の歴史が始まったと考えます」。

司会の禰冝田佳男が、こう述べている。「『魏志倭人伝』によりますと、『倭国の乱』が2世紀後半に起こります。特に近畿説を唱える人たちにとっては、この『倭国の乱』が頼みの綱。弥生時代後期前半まで栄えていた北部九州と近畿の立場が逆転するということで重要な意味をもっているのです」。

近畿説の吉村が、こう指摘している。「卑弥呼の墓を箸墓に比定する場合、箸墓はもともと前方後円墳として築造されたものです。そのうちの後円部の大きさが(『魏志倭人伝』の記述と)合致するからといって、それを根拠に比定するような説明のしかたは、問題ではないでしょうか」。

九州説の高島が、鋭く反論している。「纒向遺跡の大型建物や箸墓を、3世紀の遺跡、古墳とすること、それを前提に話をなさっていますが、これは受け入れられないですね。・・・やっと最近その年代を決める資料が纒向で発掘されたと私は思っております。それは木製の鐙(あぶみ)です。馬具の一つである鐙は、常識的にみると東アジアでは4世紀後半以降に出てくるもので、日本では5世紀にしか出てこないものです。それが纒向で4世紀初めといわれる布留1式土器と一緒に出てきている。すると東洋最古の鐙となるわけですね。『魏志倭人伝』には牛馬なしと書かれています。鐙があるというのは、北朝鮮・中国東北部の古墳壁画のような戦闘隊列を組むにあたっては騎馬がいるということで、これはたいへんな意味をもつわけでして、ただ古いものが出てきたというだけではない。いままでの中国や朝鮮半島の考古学的な成果からいうと、4世紀後半に考えたほうがいい。やはり全体的な土器の年代をもう少し下げて考えたほうがいい。4、5世紀の、好太王碑文、朝鮮の歴史書である『三国史記』などによれば、高句麗には騎馬隊はいるけれども、当時の日本の軍は、騎馬ではなく、歩兵で構成されているとしか読めないですね。したがって、4世紀はじめの日本には騎馬の存在は考えられません。ですから纒向の大型建物は、少なくとも4世紀に入って建てられたものととらえたほうが正確ではないか。邪馬台国論争とあまり関係ない遺稿ですが、ヤマト王権の成立にかかわるきわめて重要な遺構の発見だと思いますし、それは今後探究していただきたいと思っています」。これは近畿説にとっては致命傷ともいうべき指摘で、纒向遺跡は邪馬台国時代よりずっと後の遺跡だと喝破しているのだ。

司会の禰冝田佳男が、シンポジウムの成果を、こう交通整理しています。「▶邪馬台国時代以前の社会について――北部九州地域では弥生時代中期以降、特に後期の遺跡として、吉野ヶ里遺跡をはるかにしのぐ規模の須玖遺跡群や比恵・那珂遺跡群などの存在が知られるようになり、遺跡の構造や、鉄器・青銅器など金属器生産の実態が明らかになってきました。これに対し畿内地域では、大規模集落として唐古・鍵遺跡は存在するものの、弥生時代後期後半に青銅器生産をおこなった証拠は認められず、当該期の唐古・鍵遺跡に畿内地域のセンターとなるような拠点性があったのか、さらには畿内地域がはたして先進地域だったのか、疑問視する説があることを紹介しました。これについては、今後の発掘調査に期待したいという意見がありましたがが、これまでの発掘調査の蓄積は厖大なものとなっていますので、それらの成果を今日的な視点で再検討することが必要なのかもしれません」。

「▶『倭国の乱』について――『倭国の乱』の範囲を、北部九州地域、畿内地域を含む地域、とする考え方がありました。が。その実態を明らかにすることは、文献史学でも考古学でも難しいというのが基調講演、討論での結論です」。

「▶卑弥呼がもらったとされる『銅鏡百枚』について――『銅鏡百枚』については、従来からいわれている三角縁神獣鏡説とともに、画文帯神獣鏡説、さらには後漢鏡説も示されました。その配付については画文帯神獣鏡は卑弥呼で、三角縁神獣鏡はその後継者とみる説をはじめ、やはり多様な考え方があります」。

「▶邪馬台国の候補地について――遺跡のプランニング、建物の配置に規格性があったのかどうかが、候補地の決め手となるか問題となりました。吉野ヶ里遺跡では、大規模な環濠集落内において、北内郭と南内郭内における建物配置と北墳丘墓と南祭壇の配置の規格性が強調されました。一方、纒向遺跡で発見された大型掘立柱建物群については、中枢空間と目される範囲のなかで、4棟の建物の中心軸を東西方向にそろえることでの規格性が指摘されました。纒向遺跡については、討論で、広大な範囲において規格性をみいだすことができるのかどうかが課題である、という意見がありました」。

「▶卑弥呼の墓について――卑弥呼の墓としては箸墓説が有力視されてきましたが、今回、九州説では『魏志倭人伝』の『径百余歩』は厳密な数字ではないとして、平原遺跡1号墓を中心とする墓城が、近畿説では直径100メートル程度の墳墓説が示されました。卑弥呼の墓を特定することはきわめて困難です。・・・近年では副葬品から被葬者の性別を推定する研究が進められています。人骨が残っていませんでしたが、平原遺跡1号墓は銅鏡以外に、素環頭鉄刀と多数の玉類が副葬されていることから、被葬者が女性である可能性が指摘されています。女性首長がこの時期に登場していたことになります」。

公平に見て、九州説に分があるというのが、私の率直な感想である。