榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

邪馬台国はどこにあったのか、聖徳太子は実在したのかなど、最新成果満載の一冊・・・【情熱の本箱(344)】

【ほんばこや 2020年11月19日号】 情熱の本箱(344)

歴史道(12)』(朝日新聞出版・週刊朝日MOOK)は「古代史の謎」を網羅的に取り上げている。

とりわけ興味深いのは、「畿内説VS九州説論争に決着! 邪馬台国はどこにあったのか?」、「ヤマト王権の誕生と発展」、「聖徳太子の『虚』と『実』を解き明かす!」の3つである。

●卑弥呼について(武光誠監修・文)――。
「奈良県桜井市に纒向遺跡という有力な遺跡があることを根拠に、考古学者の多くは大和説をとる。ところが3世紀の中国の漢文の読み方に従って解釈すれば、邪馬台国が九州にある可能性が高くなる。しかし『魏志倭人伝』の記述は、かなりあいまいである。私は文献史学の視点でみれば、九州説の可能性が6割、大和説の可能性が4割ぐらいではないかと考えている。・・・吉野ヶ里遺跡に、南北約39m、東西約26mの墳丘墓がある、全体が平らになっている吉野ヶ里遺跡で見れば、その墳丘はかなり大きい。吉野ヶ里遺跡の現在の高さは約2.5mであるが、それが造られた時に墳丘は4.5mの高さをもっていた。墳丘墓には、数十墓の甕棺(土器製の棺)が埋められていたとされる。墳丘墓は首長とその同族を葬ったものだろう。九州説にたてば卑弥呼の墓は吉野ヶ 里の墳丘墓のようなものになる」。

●邪馬台国について(仁藤敦史監修)――。
「近年、箸墓古墳周辺から出土した土器を最新の炭素14年代測定法で調査した結果、箸墓古墳の築造年代は西暦240~260年と推定できるとの研究が発表されている。卑弥呼の死亡推定時期と一致するが、炭素14年代測定法には分析精度に問題がるとの指摘もあり、この結果から『卑弥呼』の墓であると断定はできない。また、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではなく台与の墓ではないかとする見解も根強くある。・・・纒向遺跡のさまざまな特徴をもって、即、邪馬台国や卑弥呼と結びつけることはできない。しかし現在のところ、3世紀半ばから後半にかけてという卑弥呼と同時代において、列島各地との交通物流の重要拠点であり、突出した大型の祭祀・宮殿遺跡をもち、さらに『径百余歩』に相当する出現期の大型古墳をもつ遺跡は、纒向遺跡をおいてほかにはない。纒向が邪馬台国の最有力候補地であることは、疑いようがなく、畿内説の論拠となっている」。

「『魏志倭人伝』には、卑弥呼の居住地に『居処、宮室、楼観、城柵』があったと記している。これらは吉野ヶ里遺跡で見つかった大規模建物跡、物見櫓、城柵が付随する二重の濠にそれぞれ合致するとみなされ、吉野ヶ里遺跡は邪馬台国の候補地として脚光を浴びることになったのである。・・・『魏志倭人伝』をはじめとする中国の文献には、2世紀後半に起きたとされる『倭国大乱(倭国乱)』の記述がある。吉野ヶ里で見つかった人骨の損傷は、こうした戦乱の痕跡とも解釈できる。このように吉野ヶ里遺跡には『魏志倭人伝』に記された邪馬台国の特徴と符合する考古学的物証がみられることから、吉野ヶ里こそ邪馬台国であるとの主張が盛り上がりをみせた。実際、吉野ヶ里が邪馬台国のイメージに近い遺跡であることは確かだろう。しかし、考古学的見地からは、吉野ヶ里の最盛期は邪馬台国の時代より数百年さかのぼる弥生時代中期と考えられることから、現在では、吉野ヶ里が邪馬台国であったと見る向きは少ない。しかし、吉野ヶ里が位置する筑紫平野からは、比較的近年、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市)を中心とする小田・平塚遺跡群など大規模な弥生環濠集落跡が見つかっている。こうした発見を受け、邪馬台国が北部九州にあったとするバージョンアップされた九州説は、今後も生き続けるであろう」。

●ヤマト王権について(武光誠監修・文)――。
「纒向遺跡から、吉備(岡山県)のものと共通する遺物がいくつもみられる。このことから、私は吉備から来た移住者が奈良盆地の後進地であった纒向に王権をひらいたと考えている。・・・ヤマト王権ができた後、大王は自分たちを他の首長より上位に置くために最初の古墳である纒向石塚古墳を造った。それは普通の墳丘墓の2倍以上の高さと、数倍の面積をもつものであった。このことが、日本全体を治める大王という概念を作り上げていったのだ」。

このように、邪馬台国所在地論争の最新成果が要領よく整理されているが、私は、邪馬台国は北部九州に存在し、これとは別に、ほぼ同時代に、畿内にヤマト王権が成立したと考えている。

●聖徳太子について(遠山美都男監修・文)――。
「超人伝説をまとめて記した最初の書物が『日本書紀』であったことから、後世巨大化していく超人・聖徳太子の原型は『日本書紀』によって創作された可能性が大きい。かつて歴史学者の大山誠一氏により唱えられた『聖徳太子非実在説』は、このような観点から、太子像が創造された意図や創作に加担した人物を大胆に推定して、多くの関心を集めた。大山『非実在説』は『日本書紀』編集論として評価すべきなのである。だが、大山氏は『日本書紀』の太子の虚構性を強調するあまり、太子の実在のモデルである厩戸皇子の地位や権力にまで疑いの目を向けるようになった。大山氏によれば厩戸皇子は蘇我氏の庇護下にあるさして有力とも言えない皇族にすぎず、その事績は斑鳩宮と斑鳩寺(法隆寺)を営んだこと程度であると断定されることになる。・・・大山氏が厩戸皇子の地位と権力を過小に評価したのは明らかに間違っていると言わねばならない」。

「『摂政』聖徳太子は虚像としても、彼が国政に関与したというのは本当であろう。もちろん推古元(593)年に太子が若くして国政に参画し始めたというのは疑わしいが、それから約10年後、推古8(600)年前後に彼が国政関与をスタートしたことは認めてよい。・・・冠位十二階や憲法十七条の制定など、従来はすべて太子の企画・立案に成ると言われてきた。しかし、これは疑問とせざるをえず、推古天皇を中心に大臣蘇我馬子と太子の三者によって構成された権力中枢によって、この時期の政治・外交は推進されたと見るべきであろう」。

遠山美都男により大山誠一の説が反論されているが、大山の聖徳太子非実在説を支持してきた私の考えは、いささかも揺るがない。