聖徳太子は、実在しなかった架空の人物・・・【MRのための読書論(36)】
常識・定説に囚われないMR
MR活動を行う際の常識・定説というものがある。しかし、時と場合によっては、常識・定説に囚われない発想、行動が必要となる。日本史上、最も著名な人物・聖徳太子の例は、世の常識・定説が絶対的なものではないということを考える参考になる。
「聖徳太子」の虚実
一般に知られている聖徳太子(574年~622年)は、用明天皇の皇子で、本名は厩戸王(うまやどおう)。生まれながらに豊かな教養と優れた政治理念を持ち、叔母の推古天皇から皇太子、摂政に任命され、天皇に代わって国政を指導。冠位十二階、憲法十七条の制定などにより内政を整備し、遣隋使を派遣して進んだ大陸文化の導入にも努めた偉大な政治家というものだろう。思想的には仏教に帰依し、法隆寺、四天王寺を建立し、法華・維摩・勝鬘経の注釈書である『三経義疏』を著し、その国家改革の理想は中大兄皇子や中臣鎌足らに継承され、大化の改新によって実現されたと言われている。
ところが、王族の一人として厩戸王という人物が実在したことは確かであるが、その人物が「聖徳太子」という聖人であり、その行ったとされる数々の輝かしい事績を歴史的事実と確認できる史料は皆無である、すなわち、「聖徳太子」は後世に作られた架空の人物である、と結論づけたのが、『<聖徳太子>の誕生』(大山誠一著、吉川弘文館)である。それまでも、「聖徳太子は実在しなかった」という説は、さまざまな研究者によって唱えられてきたが、この書の登場は画期的、衝撃的、かつ決定的であった。そして、その後、大山説に対して多くの反論がなされたが、大山説を打ち負かすほど説得力のあるものは現れていないのである。
「聖徳太子」の虚構の証明
聖徳太子の基本史料は、『日本書紀』と法隆寺系の2系統とされている。確かに『日本書紀』には、聖徳太子の出生から死に至る事績が詳しく記されている。沢山書かれているからといって、それにより実在性が保証されるわけではない。一つ一つの記事が、荒唐無稽なものであったり、聖徳太子の時代のものとして不自然であれば、それらは『日本書紀』の編者の創作と考えねばならないからである。
一例として、聖徳太子は実在したと考えている研究者たちが最大の拠り所としている憲法十七条に焦点を当ててみよう。『隋書』は、唐の魏徴らが636年に撰した史書で、隋滅亡後間もなくの成立のため、史料的価値が高いと認められているが、その中の「倭国伝」の記事は、600年を第1回とする数回の遣隋使がもたらした情報に基づいており、当時の日本の様子をよく伝えている。それによれば、文字や記録は日常的な政治の場では、まだ使用されておらず、当時の日本の為政者は中国思想をほとんど理解していなかったのである。しかるに、憲法十七条は、多くの中国の古典を引用し、中国の思想や政治のあり方を熟知した文章から成っている。そのような文章を604年の時点で、いかに天才であろうと、聖徳太子に書けるわけがないし、また、これを官人たちに示したとしても、日常的に文字を使用していなかった彼らには全く理解できなかったことだろう。
さらに、701年の大宝律令で定められた「国司」という官名が、憲法十七条の第十二条に見えることからも、後世の偽作であることは明らかだ。
「聖徳太子」の捏造
720年完成の『日本書紀』の中で、聖徳太子の華々しい活躍が描かれることになるが、これは、当時の政界の実力者・藤原不比等の差し金であった。不比等の2つの深謀遠慮――1つは、中国の皇帝と対比され得るような天皇像を示すこと。皇室の歴史の中にも、儒教、仏教、道教の中国思想を踏まえた聖人がいて、その人物の活躍によって今日の日本があると見栄を張りたかったのである。もう1つは、皇太子というポストを権威づけ、自分の血を引く皇太子・首皇子(後の聖武天皇)の即位を実現させ、藤原一族の栄華の基礎を築きたいという切実な願いである――の下に捏造されたのが、「聖徳太子」だったのである。
戻る | 「MRのための読書論」一覧 | トップページ