良寛は「根源芸術家」にして「思想的多面体」だという仮説の検証作業・・・【情熱の本箱(149)】
『根源芸術家 良寛』(新関公子著、春秋社。出版元品切れだが、amazonなどで入手可能)は、我々が思い描いている良寛像に大幅な変更を迫ってくる。
著者は、良寛は「思想的多面体」だと言う。「儒学も仏教も神道も国学も深く広く学びながら、一方に偏らない思想的多面体が良寛の本質なのである。とりわけ晩年は儒学と仏教を、つまり広義にとらえるなら哲学と宗教を人間の精神活動の両翼として等分に表現しようとする意欲が顕著に見られる」。
また、著者は、良寛の言語重視を指摘している。「良寛は人間の本質を言語的存在とみなし、言語をもって地域の衆生を教育済度することが、在家僧である自分の務めと確信していたらしい。その倫理観は非常に幅が広く、仏教にのみ依拠するのではなく、『論語』『中庸』『易経』など中国古代の倫理的、哲学的思想を、木村家にきてからしきりに書いていることが注目される。・・・木村家に来て終末に近づくにつれ、仏教に傾きがちな自分の思考傾向のバランスをとるように、若い頃大森子陽の塾で学んだ儒学を想起しているらしい」。このことは、良寛の教育者的側面にも光を当てることになる。
教育に当たり、良寛が重きを置いたのは法華経であった。「法華経は宗派を超えて親しまれる経典中の王者的存在で、道元もしばしば引用しているので、良寛も法華経をもっとも衆生済度に効果ある、重要な経典と考えていたに違いない」。「法華経の主張は結局『一切のものの真実の相は白蓮のように美しい』ということなのだから、これは良寛の主張と同じこと。究極の美しい世界を求める仏陀の教えは、良寛が生涯かけて追究してきた美の世界と最終的に一致するものだと良寛は納得してこの一連の『法華転』や讃を書いたのだろう」。
良寛が到達した世界とは、どのようなものか。「言語による表現の美を追究してきた良寛は、最晩年に『正法眼蔵』と『法華経』を学び直すうちに、すぐれた芸術家は同時にすぐれた宗教家でも教育者でもあると思わせる書作品『愛語』を生み出した」。『愛語』は、「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり」と始まっている。
良寛の魅力とは何か。「もし良寛が単に仏教者として生きたなら、たとえ僧職の頂点を極めようとも、かくも後世の人々に精神的影響を及ぼすことはできなかっただろう。聖と俗の間にたつ求道的表現者だったからこそ、多くのひとが今なおひきつけられるのだ。『良寛の書はどうしてこんなにも美しいのか』という問いに始まった長旅を閉じるにあたり、私は良寛に『根源芸術家』という呼称を贈りたい。・・・宗教をも哲学をも芸術によって表現する、根源的(radical)な芸術家という意味である。ラディカルはラテン語の根に由来するというが、過激なというニュアンスもある。それもまた良寛にはふさわしいかもしれないと思う。根源において美を貫くその生き方は、誰にも真似の出来ない過激さだった。その過激さは単なる宗教家の枠を超えている。しかし、仏教の根源の理想が『正しい教えの白蓮=一切のものの真実の相は白蓮のように美しい』であるなら、それはまさに芸術のめざすところ、哲学のいきつくところでもあろう」。
良寛は老いと死をどう捉えていたのか。「良寛は自分の老いに逆らわない。40代には意気揚々、各地を転々とすることもいとわなかった。50代には国上山中腹の五合庵に定住し、毎日のように小登山を繰り返した。やや体力の衰えを感じた60代には、より里に近い乙子神社脇の草庵に移り、思索を深め書に熱中した。老いの不安が深刻化した60代末には、島崎の木村家の世話になった。自然の摂理に対しては、無駄な抵抗はしないというその生き方は次の手紙によく表れている。<災難に逢時節には、災難に逢がよく候。死ぬ時節には、死ぬがよく候。是ハこれ災難をのがるる妙法にて候>。・・・災害は天罰、死は不可避とわり切って、じたばたしないところが良寛らしい。天性が楽天的で自分の強運を信じている。しかしその強運も永遠ではない。73歳前後から次第に衰弱を自覚していく。普通芸術家の肉体的衰弱は、作品内容の脆弱化を招くことが多い。ところが良寛の場合、肉体の衰弱が作品表現に一層の深みと魅力を添える結果となっているのには驚く」。
最晩年の良寛と貞心尼との関係はどのようなものだったのか。「実際に良寛史に彼女(貞心尼)が登場したのは、島崎に良寛が移ってからのこと。今日巷に溢れる良寛と貞心尼に関する物語には、彼女の教養よりもその若さと美貌ばかりが強調されがちだ。淋しい晩年に、突然訪れた若く美しい尼僧に敬慕され、介護されつつ遷化した良寛は、まさに理想の死を遂げた人。良寛人気の一端はこの明るくよろこばしい死に方にあるといっても過言ではない。けれども本当に注目すべきことは、美貌より、初対面から良寛を魅了したその文学的才能と見識であろう。また、彼女が良寛の業績を後世に伝えるために傾けた努力は並のものではない」。
「打てば響くような聡明な貞心尼に、良寛が魅了されたのは言うまでもない。ふたりは和歌の応酬を通して、40歳の年齢差を越えて、師弟関係というより敬愛しあう親友となった。万葉集では大きなジャンルだった相聞歌は、王朝制度が崩れると姿を消したが、江戸時代になって良寛と貞心尼の応答歌のなかに見事に復活したのである。全身全霊を捧げて熱愛するに値する才能と人格の人に出会って、貞心尼の歌は高揚した。その詠い方の率直な近代性は、与謝野晶子の先駆と言えるかもしれない」。74歳の良寛の死を看取った時、貞心尼は34歳だったが、その後、彼女は75歳まで生き抜いたという。
さまざまな良寛像が流布しているが、良寛の中では芸術と宗教が渾然一体となっていたという著者の仮説は、豊富な史料を駆使した検証によって裏打ちされているので説得力があり、注目に値する。