文壇照魔鏡事件が炙り出した、鉄幹を巡る登美子と晶子の胸の内・・・【情熱の本箱(160)】
『鉄幹と文壇照魔鏡事件――山川登美子及び「明星」異史』(木村勲著、国書刊行会)は、脚光を浴びる若手歌人・与謝野鉄幹を厳しく糾弾した怪文書・文壇照魔鏡の事件を通して、鉄幹を巡る山川登美子、与謝野晶子の心の内面を炙り出すことに成功している。
「『文壇照魔鏡』は前年(1900年)4月に創刊されて急伸長していた雑誌『明星』の主宰者、与謝野鉄幹の人間性・倫理性を激しく非難する内容だった。刊行と同時に少なからずの新聞・雑誌が食いつき、ほぼ1年間にわたり文壇のみならず論壇の話題の種となる」。奥付に書かれていた発行地、著作兼発行者、代表者、印刷者などのいずれもが架空のものであった。
「文壇照魔鏡」の内容は、●鉄幹は妻を売れり、●鉄幹は處女を狂せしめたり、●鉄幹は強姦を働けり、●鉄幹は少女を銃殺せんとせり、●鉄幹は強盗放火の大罪を犯せり、●鉄幹は詩を売りて詐欺を働けり、●鉄幹は教育に藉口して詐欺を働けり、●鉄幹は恐喝取材を働けり、●鉄幹は明星を舞台として天下の青年を欺罔せり、●鉄幹は師を売る者なり、●鉄幹は友を売る者なり――といったものである。
鉄幹は、ライヴァル誌『新声』と、その中心人物の高須梅溪を犯人と睨み、名誉棄損で民事告訴する。以後、『明星』と『新声』のバトルが繰り広げられていく。
この事件は多方面に影響を及ぼす。「文壇照魔鏡」の中で実名を挙げられた鉄幹の妻・滝野は、愛想が尽きたた鉄幹と別れ、晶子に夫を譲る決心をする。「他方、誰に気づかれることもなく山川登美子の『地獄におつる』思いの早い晩年が始まっていた。『文壇照魔鏡』がなければ滝野が夫を譲ることはなかった。譲らなければ晶子が寛(鉄幹)のもとに走ることはなかった。そうなら『みだれ髪』が書かれることもなかったことになる。登美子の早い後半生も心静かなものになっただろう。照魔鏡は『明星』の歴史を現在見るような形に決めた――3人の女性を巻き込み、その運命を変えながら」。
「鳳晶子は(1901年)6月初め、ついに寛のもとへ出奔する。彼の仕事上のエネルギーは一冊の歌集刊行に向かっていた。8月、その『みだれ髪』が出る。9月に結婚(入籍は翌年1月)。晶子22歳、鉄幹28歳。すべて『文壇照魔鏡』事件の渦中でのこと――。逆境下の捨て身の攻勢、顰蹙を買うにしろ有名性・話題性こそ力であることを、寛は知っていた。したたかな、自覚あるメディア時代の人なのである」。
「寛が業平を自認したように、自ら恋される男の位置を設定することによって、恋する女たちが生じさせられた――雅子、滝野を含めて。寛戦略に乗った『明星』ラブ・ロマンがここに成立する。『晶子の明星』となる以前、寛が作品指導、誌面演出に最も腕を振るっていた『鉄幹の明星』期である。とくに晶子・登美子は優れたタレントであった。誌面は恋の三者関係が分かるように編集されており、むしろ営業方針である。ともかく売れなければならない。ふつう言われる明星ロマンとは雑誌型となった9月号から照魔鏡の直前までの4、5冊といっていい。まさに劇場型の文学運動であった」。
そもそも、梅溪はなぜこのような怪文書を公開するに至ったのか。『新声』や『明星』に鉄幹、登美子、晶子、梅溪らが短歌を載せていた時分に遡る。歌会で詠んだ登美子の歌が、異性との交際経験のなかった20歳の梅溪の心を燃え上がらせてしまう。登美子にすれば、歌会ではごく普通の社交的なものと思っていたのに、梅溪のほうは、自分の思いが通じたと勘違いして、舞い上がってしまったのである。
「行く秋、切々たる慕情の梅溪作が『新声』や『明星』にも現れるようになる。並行するように登美子の恋心を忍ばせた歌も『明星』や『関西文学』に現れる――こちらはむろん師の君(鉄幹)を思ってのそれだ。晶子と競いあう満開の明星ロマン歌である」。すなわち、梅溪が登美子恋しさで胸を焦がしていたのに対し、登美子のほうは鉄幹に思いを寄せていたのである。「悶々のなかから10月の雑誌に現れた慕情作となる。登美子としては迷惑この上なく、寛に告げた」。鉄幹は梅溪に注意する。梅溪が鉄幹への恭順をかなぐり捨てて牙を剥き出すのは、この段階からである。
やがて、登美子は忌まわしい照魔鏡事件の核心に自分がいることに気づく。「まさに驚天動地、落雷に打ちのめされ、藁をもつかむ心境――」。「ことの真相に気づく以前は、仲間とともに連帯して憤慨していた一連の報道が、いまや自身一人の頭上に天地が崩れるように落ちかかってきた」。「師の君を泥にまみれさせてしまった自分、痛切な自責となって自らに向かってくる、こういう感受性が登美子なのだ。家族、新詩社員、そして世間すべてが自分に非難の目を向けているような心理状態であり、登美子の以後の人生を貫く強烈なトラウマとなる。己を罰する――贖罪意識が生じ、以後の作歌活動の根底を規定することになる」。これは著者独自の見解だが、説得力がある。
夫を亡くした登美子は上京し、鉄幹・晶子の前に姿を現す。「鉄幹の正式な妻であり、歌集『みだれ髪』の著者として、賛否両論の渦の中で動かしようもない斯界の席を与えられていた晶子は、それにもかかわらず今度は登美子と鉄幹の間に不安を抱く立場に立たされる。晶子の、登美子に対する本当の嫉妬は、明治37(1904)年の登美子の上京に始まったと思われる」。登美子が上京したのは、鉄幹との恋を再燃させようとしたのではなく、鉄幹の栄光を泥にまみれさせてしまったという強い贖罪感のためであった――と、著者は考えている。
この5年後、登美子は29歳という若さで病没してしまうのである。「(登美子の歌から)鼓を鳴らし渦巻くメディアの喧噪に、死の床までうなされていたことがわかる。病床の登美子が照魔鏡を気にしていたことを物語る(弟の)証言もある」。
鉄幹と晶子については、これまでそれなりに知識を蓄積してきていたが、登美子という女性の存在が、今や私の心の中に深く根を下ろしている。