榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

「命短し、恋せよ乙女」の源流を尋ねて・・・【山椒読書論(162)】

【amazon 『甦る「ゴンドラの唄」』 カスタマーレビュー 2013年3月19日】 山椒読書論(162)

長いこと、頭の中でもやもやしていたことが、『甦る「ゴンドラの唄」――「いのち短し、恋せよ、少女」の誕生と変容』(相沢直樹著、新曜社)のおかげで、すっきりした。

というのは、私の好きな「命短し、恋せよ乙女 赤き唇 あせぬまに 熱き血潮の 冷えぬまに 明日の月日は ないものを」という「ゴンドラの唄」の源流はハンス・クリスチャン・アンデルセンの『即興詩人』らしいという情報に接し、これまた大好きで、何度も読み返している『即興詩人』にその該当部分を発見できない自分に苛立っていたからである。

著者の粘り強い探索によって、「もともとイタリアのヴェネツィアで歌われていたという里諺(小歌)をデンマーク人のアンデルセンが半自伝的作品(『即興詩人』)に取り込み、そのドイツ語訳を(森)鴎外がやや恣意的に日本語に訳したものをもとに焼き直して作られた詩が、ロシアの小説(イワン・セルゲーヴィチ・ツルゲーネフの『その前夜』)を日本で舞台化(島村抱月率いる芸術座が1915年に松井須磨子主演により帝劇で上演)する際の劇中歌(吉井勇作詞・中山晋平作曲)に用いられた」と、明らかにされている。ツルゲーネフの原作には、この歌は存在しなかったのである。

その吉井の詩は、「いのち短し、恋せよ、少女(おとめ)、朱(あか)き唇、褪せぬ間に、熱き血液(ちしお)の冷えぬ間に、明日(あす)の月日(つきひ)のないものを。・・・いのち短し、恋せよ、少女、黒髪の色褪せぬ間に、心のほのほ(お)消えぬ間に、今日(きょう)はふたたび来ぬものを」であったというのである。この詩の「音律は、七五調や五七調が偏愛される我が国の韻文の世界で江戸時代に確立した、『都々逸調』とか『甚句形式』と呼ばれるもの」だと、著者の指摘は鋭い。

このことは、吉井自身が憧れていた須磨子に宛てた公開書簡の中で、「この時作った『ゴンドラの唄』は、実を云ふと鴎外先生の『即興詩人』の中の『妄想』と云ふ章に、『其辞(ことば)にいはく、朱(あけ)の唇に触れよ、誰(たれ)か汝の明日(みょうにち)あるを知らん。恋せよ、汝の心猶(なお)少(わか)く、汝の血は猶熱き間(あいだ)に、白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。・・・』とあるのから取ったものです・・・」と述べているので、間違いない。

さらに、この本は、興味深い3点に目を向けさせてくれた。

第1点は、吉井とその文学の師・鴎外との、どこか緊張感を孕んだ微妙な師弟関係である。

第2点は、吉井の「ゴンドラの唄」は与謝野晶子の『みだれ髪』の影響を受けているのではという指摘である。著者は、「その子二十(はたち)櫛に流るる黒髪のおごりの春のうつくしきかな」の「黒髪」、「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」の「あつき血汐」、「春みじかし何に不滅の命ぞとちからある乳(ち)を手にさぐらせね」の「春みじかし」「命」との相似性を挙げている。私も「ゴンドラの唄」と『みだれ髪』の親近性が気になっていたので、この点でもすっきりすることができた。

第3点は、黒澤明監督の映画「生きる」が、「ゴンドラの唄」を復活させただけでなく、この歌の性格を一変させたという説である。粉雪の舞う深夜の小公園で主人公が独りブランコを揺すりながら「ゴンドラの唄」を歌うシーンが印象深いが、「映画『生きる』では死期の迫った初老の男に、特にどの娘に向けてというでもなく、人びとみなに、あるいは自分に言い聞かせるように歌わせているのです。『生きる』で渡辺勘治(主人公)がしみじみと歌って見せたことで、『ゴンドラの唄』は単に若い女の恋の歌にとどまらず、性別・年齢を問わないすべての人に開かれた歌となった」というのである。