光源氏のしつこい求愛を毅然と拒絶した3人の女性がいた・・・【情熱の本箱(165)】
私は『源氏物語』は好きだが、光源氏は嫌いである。この点では、瀬戸内寂聴と意見を同じくしている。一方、私は、多くの女性が源氏に靡き、身を任せ、そして不幸になっていった中で、源氏の求愛を毅然と拒絶した3人の聡明な女性に喝采を送っているのだが、寂聴は考えを異にしているようだ。この物語全体を通じて私が一番魅力を感じる女性は朧月夜だが、寂聴も同意見とはちょっと意外な気がしないでもない。
『わたしの源氏物語』(瀬戸内寂聴著、集英社文庫)は、『源氏物語』を巡るエッセイ集であるが、あちこちで寂聴節が炸裂している。このことが、本書を断然面白くしていると言っても過言ではないだろう。
寂聴は、この物語の主人公は源氏ではなく、「時間」だとマルセル・プルーストのようなことを言っている。「源氏物語は光源氏を中心に多くの人間群の運命を描いているが、本当の主人公は『時間』であった。源氏の生まれる前から、死後20年ほど、およそ80年ばかりの時間がそこに流れている。登場人物はその時間の中で、生まれ、病み、老い、死んでいく。人々の運命は厳粛な時間の間に否応なく変わっていくが、変化するのは運命だけでなく、人間の肉体と心であった」。
著者の光源氏批判は辛辣である。「源氏物語を読んでいて面白いと思うのは、光源氏の好色ぶりが、時、所、相手かまわずという点である。源氏が若紫(紫上)を自邸に引き取るのは、(不倫相手の)藤壺を春妊娠させた年の秋であり、末摘花に通いはじめるのは、藤壺が妊娠した身で宮中へ帰った後、1か月もたっていない。同時に多くの女を愛せる男の代表のようなタイプである。自分との不義の子を藤壺が産み、さんざん悩んでいるかと思えば、その同じ月に、朧月夜の君との情事が発生している。正妻葵上が、出産の直後死亡した後、四十九日がすむやすまずで、紫上と事実上の夫婦の契りをする。一年の喪にも服してはいない。桐壺院の四十九日の後、里邸に下がった藤壺の許へしのびこみ、しつこく迫ったりするのも、常識では考えられない。父の喪中に、継母に迫る源氏だから、自分の息子の嫁に横恋慕しても不思議ではない」。複数の女性と関係を持つことが当時の貴族男性の常であったとはいえ、いくら何でも、これは度が過ぎている。
「光源氏が想いをかけた女で、どうしても想いをとげることが出来なかった女が3人いる。1人は六条御息所の遺児で、冷泉帝の女御になった梅壺女御。この人は秋を好んだということから秋好女御とも、前斎宮だったので斎宮の女御とも呼ばれている。いくら源氏が好色でも、自分の本当の息子の嫁だし、女御という相手の立場もあって、そう露骨に迫ることも出来ない。それに、この女御は聡明で真面目な性格の上、母の御息所と源氏の辛い恋を知っているので、源氏の横恋慕をうとましく思い、受けつけようとはしないし、源氏のつけこむすきを与えるようなことはなかった」。
「もうひとりは、若き日の恋人、夕顔の遺児の玉鬘で、彼女は数奇な運命をたどり、九州から上京して、源氏に拾われ、養女として源氏の邸にひきとられて親身な世話を受ける。実は頭中将と夕顔の間に出来た娘だった。源氏にひきとられて、みるみる洗練され美しくなる玉鬘は、若い公達の憧れの的になり、宮たちも想いを寄せる。源氏もとても養父の心境ではおさまらず、恋心を打ち明けたりしていたが、彼女も聡明で、上手に身を守り、なびかなかった。そのうち、ふとした油断から、候補者の中で一番気にもかけなかった髭黒大将に犯されてしまって、結局、彼と結婚してしまう。源氏としては思わぬ失敗をしたものだ」。
「もうひとりは、朝顔の斎院で、この人は源氏の父、桐壺帝の弟、式部卿宮の娘だから、源氏には従姉妹に当たる。源氏17歳頃から、この姫君とは文通している。・・・花や歌を贈るというのは、求愛のしるしだから、その頃から、源氏はこの従姉妹に想いをかけていたというわけである。・・・朝顔の姫君は源氏の求愛にさりげなく気のきいた返事をかえしながら、決してなびこうとしない。源氏が多情なことも知っているし、六条御息所が辛い恥ずかしい目にあっていることも知っているので、自分は御息所の二の舞にだけはなりたくないと思い、その後は次第に返事も書かないように心がけている。とはいっても、露骨に源氏に恥をかかすような気まずい思いはさせない程度の、情のあるあしらいはする。ここらあたりが朝顔の姫君の聡明さで、源氏が惹かれるところである。・・・(9年後になっても)源氏はこのまま引き下がっては男がすたるという意地も手伝って、なかなかこの恋を思い切れない。しかし前斎院の意志は固く、自分の立場を守り通して、最後には出家してしまう」。紫式部はこの朝顔の姫君の性格を愛しているように思われるが、自分は好きになれない――と寂聴が呟いている。
朧月夜のような女性には、私も会ってみたい気がする。「(朧月夜は)皇太子妃として約束された運命が、源氏との出逢い(密通)によってけちがつき、東宮妃にはなりそこね、(姉の)弘徽殿大后の意志で、朱雀帝の御匣殿に就任して宮中につとめていた。御匣殿は、宮中の衣服を調製する役所の女官を監督する役職だが、天皇や東宮の寝所に侍ることも多い。弘徽殿大后としては、是が非でも朧月夜を宮中にあげ、帝の寵を受けさせ、親王でも産ませたいという気持が強い。院の崩御で、朧月夜は尚侍に昇進した。尚侍は、天皇に常侍して、奏請や伝宣の役をするので、女御、更衣に准じ、天皇の寝所に侍ることが多い。朧月夜は大后の後押しがあるのと、人柄もいいので、女御、更衣が多い中でも、特に帝の寵愛が厚く時めいて、女房たちも数多く集まってきて、後宮では誰よりも華やかに光が当たりだす」。
歳月を経て、源氏と朧月夜の人目を忍ぶ関係が復活する。「逢ってみれば、女は昔と同じようにさわやかな若々しさがあふれ、ものやさしい風情に包まれている。世間への遠慮と、抑えがたい源氏への思慕の情がせめぎあい、思い乱れて熱いため息をつきながら、激情に流され、我を忘れていく様子など、今初めて逢いそめた女より珍しく、いとしい。夜の明けていくのが名残惜しいほど、愛を交わしつづけて飽きない。帰っていく気もないほど、源氏もすっかり女に惑溺してしまった。いつまでも名残を惜しんでいるわけにもいかず、こまごまと次の逢瀬の約束などして帰っていく。あの当時から只ならぬほど惹かれた相手なのだから、焼けぼっくいに火がついてしまえば、ふたたびどういうことになるだろうと、心のどこかに恐れもある」。「二人の仲は27年つづいたことになる。間で朱雀院一筋につとめた歳月があったものの、心の奥底では源氏への想いがくすぶりつづけていた。紫上についで、源氏の心と肉体を捕らえていた相手だったといっていい」。この箇所の寂聴の表現は、『源氏物語』そのものよりも官能的で刺激が強い。
「私は、源氏物語の中で、六条御息所と、朧月夜の君が最も好きである。一番魅力的なのは、朧月夜の君だと思っている。セクシーで、上品で、華やかで、恋に弱い。こんな女だからこそ、朱雀院が、(源氏との)不倫をも許し、愛しつづけたのだろう」。
巻末の大庭みな子との言いたい放題の対談も面白い。「●瀬戸内=(夕顔の巻の)話自体、大変にエロチックですし、いかにも頼りなげに見えながら、男(源氏)が初めて覆面をとって顔を見せた時の応答がしたたかですもの。●大庭=いかにもカマトトといった感じでいて、男がどこかの屋敷へ行って遊ぼうと言うと、平気でついて行きますでしょう。あのシレッという感じとか、図太さを、作者(紫式部)はちゃんと見ていますね」。夕顔が好きという源氏物語ファンが多いが、夕顔に対しては、私も二人と同じ印象を抱いていたので、溜飲が下がった気分である。
『源氏物語』そのものについては、林望訳の『謹訳 源氏物語』(林望著、祥伝社、全10巻)が私の一押しであるが、この『わたしの源氏物語』も手放せない一冊になってしまっている。