後宮にいた紫式部が「天皇家の密通」の物語を書けたのはなぜか・・・【山椒読書論(215)】
『王朝びとの生活誌――「源氏物語」の時代と心性』(小嶋菜温子・倉田実・服藤早苗編、森話社)は、専門家による学術論文集の観があるが、私たちにとっても興味深い内容に触れることができる。
「王朝文学わけても『源氏物語』の魅力は、そうした人々(上流貴族、中流以下の貴族、そして女性などの王朝びとたち)の息遣いや鼓動をも語り籠めた点にある。『源氏物語』は優れた文芸であるだけでなく、生き生きとした生活誌の史料として、歴史史料にも負けない価値を有していたのであった。・・・『源氏物語』から一千年を経た今もなお、日本社会の枠組みは、階級・性差・家といった問題から完全に自由になったわけではない。それゆえに生じる悩みや問題は、わたくしたちの身の回りに事欠かないだろう。だからこそ『源氏物語』の時代と心性を検証することは、きわめて今日的な課題と言えるのである」と、編者や執筆者たちの問題意識は極めて高いのである。
とりわけ、高橋亨による「『源氏物語』の後宮と密通」の章は、示唆に富んでいて、面白い。「<桐壺>や<藤壺>という『源氏物語』の后たちの呼称は、その人たちが住んだ<後宮>の殿舎の通称である。日本の後宮制度は中国に倣ったものだが、白居易『長恨歌』が<後宮の佳麗三千人>という唐と比較して、その規模はずっと小さい。また、アラビアやイスラム世界の<ハレム>とも大きな違いがある。平安朝の後宮には<宦官(かんがん)>という去勢された男性官人がいなかった。宦官のいない後宮が日本の特異さであり、それが『源氏物語』のような密通の物語を成り立たせる基盤となった。平安朝の後宮は、江戸時代の<大奥>とも違って、男子禁制の空間ではなかった。・・・女文字とされた<かな>文字により、平安朝の女たちが男とも和歌による手紙(恋文)を交わしたりしていたことが、王朝女性文芸の基盤である」。
私たちが一番知りたいことを、読者に成り代わって、高橋が問題視している。「一条天皇の中宮であった彰子に仕えた<紫式部>は、どうしてこのような<王権>に関わる密通の物語を書くことができたのであろうか。一条天皇や藤原道長、また藤原公任も『源氏物語』の享受者として『紫式部日記』に登場し、こうした<王権>に関わる密通の物語をとがめたふしはなく、むしろ賛美している。・・・<伊勢>、そして<清少納言>や<紫式部>も、厳密な意味での<後宮>の女房ではなかった。天皇に仕えた女官は<上の女房>、后たちに仕えた女房は<宮の女房>と呼ばれ区別されていた。つまり、<清少納言>や<紫式部>は、主人である中宮に仕えて<後宮>にいても、中宮の父が雇い主であった。中宮の私邸(里)での生活は、貴族男性との交流もあり、文芸サロンの様相を呈していた。平安朝で女性作家たちの作品群が花開いたのは、天皇に仕えた女官たちではなく、后たちの女房という私的な生活があったためである。・・・平安朝の<後宮>がもつ、摂関(国母)政治という私的な要素と文芸サロン的な性格を、天皇の公的な宮廷生活の内部に組み込んだ二重性が、<清少納言>や<紫式部>の<かな>文芸テクストを生んだ歴史的な背景である」。
『源氏物語』の全体像についても、高橋は簡にして要を得た表現をしている。「後宮の<恋>と<王権>をめぐる物語として『源氏物語』は始まり、第一部の物語は、<闇>を抱えた貴族社会の理想の王たる光源氏の、<光>の世界を完成させていた。第二部では、光源氏と女君たちの、心の<闇>と老いによる中心の衰退が表現されていく。そして第三部の宇治十帖では、<宇治>という周縁的な世界における、生の可能性を問う物語が露呈していく」。
紫式部は仏教をどう見ていたのか。「『源氏物語』の世界に立ち戻ってみれば、そこでは誰ひとり極楽往生できたと記されていない。・・・ことに宇治十帖の物語世界は、『紫式部日記』に表出された<紫式部>の仏教による救いへの絶望的な思考、<罪ふかき人>ゆえ往生できず<悲しく侍る>という記述と響きあっている」。