北条泰時が日本史上、唯一の革命家だという主張は成り立つのか・・・【情熱の本箱(171)】
予て、北条泰時は日本史上、燦然と輝く第一級の政治的人間と評価してきた私であるが、『日本史のなぞ――なぜこの国で一度だけ革命が成功したのか』(大澤真幸著、朝日新書)の「泰時=日本史上、唯一の革命家」という主張には驚かされた。
著者は、日本の革命家として、泰時、後醍醐天皇、織田信長の3人を挙げているが、後醍醐と信長は革命を成就できなかったので、「成功した革命家」からは外れるというのだ。
「泰時は、3代目の(鎌倉幕府の)執権である。時政、義時、そして泰時と執権の地位は継承される。・・・泰時は、いったい、どんなすごいことをやったというのか。実は、北条泰時が、日本史上唯一の革命家だ、という主張は、私の独創ではない。山本七平がかつて、そのように論じているのだ」。山本から多くのインスピレーションを得たが、自分は山本の歴史的な論じ方とは異なる、抽象的かつ形式的な論理の面から解明すると意気込んでいる。
この宣言どおり、本書の半分は、中国の易姓革命、西洋のイエス・キリストによる旧約から新約への宗教革命と、泰時による革命との比較の論証に割かれている。
著者は、何を泰時の革命的業績としているのか、見ていこう。第1に、承久の乱後に行った皇室に対する前代未聞の厳罰が挙げられている。「幕府は、まず、ごく幼い天皇(仲恭天皇)を廃した。その上で、この戦に対して最も責任が重い後鳥羽(上皇)を隠岐に、そして順徳上皇を佐渡に流した。・・・それまでの皇室関係者の流罪では、罰する主体の方も、皇室関係者である。非皇室関係者から皇室関係者が、一方的に断罪されたのは、これが初めてであり、またその後もない」。
第2に、六波羅探題の設置が挙げられている。「承久の乱以前は、鎌倉幕府は、東国(関東)を主たる支配圏とする地方的な王権であった。六波羅探題が設置されることで、鎌倉幕府の支配は西国にも及ぶようになり、幕府が列島のほぼ全域を支配していると見なしうる状態が確立されたのだ」。
第3に、評定衆という集団指導体制を創始したことが挙げられている。「彼は、叔父時房をもう一人の執権(連署)として、最重要の役職を2人制とした。さらに、北条氏をはじめとする有力御家人11名を『評定衆』と定め、その合議によって統治権を行使した。つまり、集団指導体制であり、その集団内での民主制だとも言える」。
第4に、泰時が執権として成し遂げた最重要業績として、関東御成敗式目の制定が挙げられている。「御成敗式目の最も重要な理念は、裁判の公正性である。この法は、合議体であるところの評定衆によって運用される」。「御成敗式目は、日本史上初めての体系的な固有法である。内容の点でも、また文体の点でも、御成敗式目は、律令とはまったく独立している。無学で、漢字が苦手な武士でも、この法は理解できるようにできている。・・・御成敗式目は、その後の影響の拡がりや浸透の程度から判断して、日本人の秩序感覚と非常によく合っていたということが分かる。御成敗式目は、一種の基本法のようなものになっていく。それは、室町時代にも、武家の法としての効力をもち続けた。・・・さらに公家すらも、式目を法として受け入れ始める。・・・江戸時代には、式目は、教科書や教養書として普及したという。・・・こうした状況は、明治時代のごく初期まで、つまり明治5年の学制公布の後もしばらくは続いていた。近代的な学校の確立とともに、御成敗式目は忘れられたが、それまでは、日本人の初等的な教養のひとつとなるほどに、広く深く浸透していたのである」。因みに、固有法とは自国で固有に定めた法律であり、継受法とは他国の法律を自国の事情に照らして改変した上で継受した法律である。
泰時は、日本社会に、初めて、体系的な固有法をもたらしたのだ。しかも、その法は、理想を並べ立てるような机上の空論ではなく、広く深く日本人の生活に浸透し、定着したのである。これを以て、著者は、義時を日本史上、唯一の成功した革命家と認定したのであるが、強い説得力がある。
御成敗式目の底流には、泰時が深く感化された同時代人の華厳宗の僧・明恵の思想が流れているという指摘には、目から鱗が落ちた。