榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

応仁の乱は、なぜ起こり、なぜ11年もだらだらと続いたのか・・・【情熱の本箱(180)】

【ほんばこや 2017年3月27日号】 情熱の本箱(180)

応仁の乱――戦国時代を生んだ大乱』(呉座勇一著、中公新書)は、応仁の乱に至る経緯、乱の勃発、乱の状況、乱の終結、乱が残したもの――について、時系列で手際よく記されているので、応仁の乱を知るには最適な一冊である。

記述に当たっては、歴史学者たちそれぞれが主張する見解を挙げた上で、著者自身の意見を述べるという姿勢を貫いているので、応仁の乱の全体像を立体的に捉えることができる。著者が判断の拠り所としているのは、同時代人である興福寺別当・経覚(九条経教の子)の日記『経覚私要鈔』と、その後の興福寺別当・尋尊(一条兼良の子)の日記『大乗院寺社雑事記』である。

有力守護大名家や将軍家の家督争い・内紛が相次ぐ中、幕府の実権を握ろうとこれに介入した細川勝元と山名宗全(持豊)の対立が応仁の乱の始まりとなったこと、なかなか勝負がつかず争いがだらだらと11年(1467~1477年)も続いたこと、この乱が戦国時代の幕開けとなったこと――は、よく知られているが、注目すべきは著者の3つの指摘である。

因みに、東西両軍の主な大名は、東軍が細川勝元、畠山政長、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、一方の西軍が山名宗全、畠山義就、斯波義簾、一色義直、土岐成頼、大内政弘といった顔触れである。一言で言えば、応仁の乱は、有力守護大名家や将軍家の内紛に乗じ、新興勢力の山名氏が覇権勢力たる細川氏を中心とする幕府秩序に挑戦した戦争ということができる。

注目すべき指摘の第1は、応仁の乱が勃発する直前の政治情勢の鋭い分析である。この時期、幕府には3つの政治集団が存在したというのである。①伊勢貞親を中心とする8代将軍・足利義政の側近集団、②宗全をリーダーとする集団、③勝元をリーダーとする集団――である。勝元と宗全の2者対立という構図に貞親を加えた3者鼎立という観点を持ち込むことによって、なぜ応仁の乱が起こったのかより深く理解できるようになったのである。なお、貞親と北条早雲(伊勢盛時)は同族である。

「嘉吉の変で(6代)将軍足利義教が暗殺されると、諸大名の結集の核が失われ、細川・畠山両管領家による主導権争いが始まった。諸大名は将軍の下に結集するのではなく、両管領家の一方を頼るようになり、細川派と畠山派の派閥抗争が深刻化した。細川勝元が山名宗全と提携したのは、畠山氏を抑さえ込むためだったが、畠山氏が内紛で弱体化すると、山名氏との同盟の重要度は低下した。・・・山名宗全の側も、赤松氏再興に手を貸した勝元に不信感を持った。結果的に、新興勢力山名氏が覇権勢力細川氏に挑戦するという形で応仁の乱は生起したのである。けれども、細川氏と山名氏との対立を過度に強調するのは誤りである。両者の間では斯波氏問題・赤松氏問題などの対立があったが、互いに妥協し合い、決定的な破局は避けた。両者の提携は文正の政変で伊勢貞親を追い落とすまで維持されたのであり、細川氏と山名氏の激突を宿命的なものと見るべきではない。・・・文正の政変による将軍側近勢力の没落は政局を一挙に流動化させ、ここで初めて細川対山名の構図が鮮明になった」。

「勝元と宗全が多数の大名を自陣営に引き込んだ結果、戦争の獲得目標は急増し、参戦大名が抱える全ての問題を解決することは極めて困難になった。しかも長期戦になって諸大名の被害が増大すればするほど、彼らは戦争で払った犠牲に見合う成果を求めたため、さらに戦争が長期化するという悪循環が生まれた。両軍の対立軸が不明確で、両盟主の指導力が限定的だったからこそ、将軍足利義政の終戦工作は失敗を重ねたのである」。

指摘の第2は、義政の妻・日野富子に対する肯定的な評価である。富子が義政の弟・足利義視でなく我が子・足利義尚を次の将軍にしようと画策したため、義政と義視の仲が悪化し、応仁の乱の原因となったという説、また、富子が私服を肥やすことに熱心であったことを以て、富子は悪女であったという説が流布しているが、著者はこれに異を唱えているのだ。

この富子原因説には多くの批判が提出されていると述べているのは、大乱の原因は、そんな単純なものではなく、もっと複雑だとする観点に立っているからだろう。「義視の妻は富子の妹であり、両者の関係は必ずしも悪くなかった。富子は義尚成長までの中継ぎとしてなら義視の将軍就任を支持する立場」だったというのである。富子悪女説については、こう説明している。「この時代、幕府や朝廷の人間に『礼銭』という名の賄賂を贈ることは一般的なことであり、富子が格別がめついわけではない。桜井英治氏が説くように、富子の利殖活動が悪化の一途をたどる幕府財政を支えていたことも、また事実なのである。・・・富子が東西両軍に金を貸して戦乱の拡大を促したという理解は当たらない。むしろ富子は終戦に向けて努力していたのである」。

指摘の第3は、応仁の乱の前と後で何が変わったのかの明快な提示である。「将軍足利義政を戴く東軍が反乱軍たる西軍を屈服させる形で終戦となったわけだが、乱の前後で幕府の権力構造は大きく変化した。特筆されるのは、乱後ほとんどの大名が京都を離れ、在国するようになったことである。これは、大名による分国支配を保証するものが幕府による守護職補任ではなく、大名の実力そのものになったからである。・・・各大名家においても他家とのパイプを握る在京家臣から地域に根ざした分国出身の家臣への権力移行が見られ、在京のメリットは確実に低下していた。乱後もかろうじて維持されていた守護の在京原則は、明応の政変で完全に崩壊する。在京していた諸大名が次々と分国に帰ってしまったのである」。

「俗に言う『守護大名』が将軍の権威を背景に分国支配を進めたのに対し、戦国大名は自身の力量によって『国』を統治した。したがて、将軍は戦国大名の内政には干渉できないのである。いわば幕府の畿内政権化である。戦国大名同士の戦争を将軍が調停することは間々見られるので、将軍が大名より高次の存在であることは変わらないが、将軍と諸大名が京都で協議を重ねることで戦争を阻止した全国的な政治秩序を維持する乱前の体制とは全く様相を異にする。・・・皮肉なことに、応仁の乱の原因であり、また主体でもある2つの大名集団は、終戦と共にいずれも解体した。そして、従来の幕府政治では日陰者だった守護代層や遠国の守護が、戦国大名として歴史の表舞台に登場してくる。既存の京都中心主義的な政治秩序は大きな転機を迫られ、地方の時代が始まるのである」。

学術書レヴェルの内容を一般の人にも分かるように解説できるというのは、著者の力量の現れだろう。