榎戸誠の情熱的読書のすすめ -3つの読書論・ことばのオアシス・国語力常識クイズ(一問一答!)-

足利学校は戦国最大・最高の大学+図書館だった・・・【情熱的読書人間のないしょ話(2018)】

【amazon 『戦国の図書館』 カスタマーレビュー 2020年10月23日】 情熱的読書人間のないしょ話(2018)

ハロウィーン、米国大統領選が近づいてきましたね。

閑話休題、『戦国の図書館』(新藤透著、東京堂出版)のおかげで、足利学校の全体像を俯瞰することができました。足利学校に興味を惹かれながらも、これまで、真剣に向き合ってこなかったことを反省しています。

著者は、「戦国最大の図書館・足利学校」と評しているが、足利学校は戦国最大の大学でもあったことが明らかにされています。

「(足利学校に)全国津々浦々から学生が集まり共同生活を行って勉学に励み、卒業生は各地の戦国大名の『軍配師』(いわゆる『軍師』)になっていきました。ほかには医師になった者もいます。キリスト教の宣教師も本国に報告するほど著名で、蔵書もかなり質の高いものを所蔵していました。江戸時代に入っても足利学校は有名でしたが、すでに『古典的な有名校』と見なされており、あまり活発ではありませんでした。そして明治になると文部省が『学制』(明治5年8月2日太政官布告第214号)を公布したので、足利学校はその役割を終えました」。

「足利学校は下野国足利荘(栃木県足利市)にあった、当時の高等教育機関(現代でいえば大学に相当)です。室町時代中期に関東管領の上杉憲実によって足利学校は再興されました。憲実は鎌倉円覚寺の禅僧快元を招いて初代庠主(校長)に就任させ、荒廃していた学校の立て直しを図ったのです。快元は儒学を中心とした教育を行って、それが見事に成功し、足利学校は全国から学生を集めました。南は琉球(沖縄県)出身の学生もいたようです」。

「教育内容は儒学を中心として、『易経』に力を入れていました。卒業後、学生は各大名に『軍配師』として仕える者が多かったといいます。卒業生は高い『就職率』を誇っていました。なぜ足利学校の学生が求められたのでしょうか。戦国大名は戦を行おうとする際、日にちや時刻をかなり気にしました。戦の勝敗は時の運といいますから、やはり吉日を選ぶのはお自然だといえるでしょう。足利学校では易学を勉強できましたので、卒業生は戦国大名に引っ張りだこでした。易学は戦国時代の『実学』だったのです。さらに、儒学の中には『孫子』や『六韜』、『三略』などの兵法書も含まれていましたので、易学と兵法を学んだ学生は軍配師として最適だったわけです」。

「足利学校の教育は『自学自習』が中心です。学生は一から十まで先生から教えを受けるのではなく、附属文庫が所蔵している易学や兵学の書物を書き写すことによって知識を身につけました。そして、意味がわからないことがあれば、先輩や先生に質問して疑問点を解決していったのです。このような自主性を重んじる勉学スタイルですので、修業年限も特に決められていませんでした。学生自身が納得いくまで在学でき、長い者だと10年以上、短い者だとなんと1日という学生もいたようです。入学に際して試験のようなものは特になかったのですが、男性ならば誰でも自由に入れたわけではなく、庠主が決めていたようです。見込みのなさそうな者に対しては足切りをしていたわけです。ただ、入学が許可される条件として、僧籍にある者でなければなりませんでした。僧侶でない者は一時的に僧侶になり、卒業後は還俗していたようです」。

「人気が高かった理由として、高い『就職率』のほかに、附属文庫の蔵書が充実していたことが挙げられます。基本的に自学自習ですので、文庫に儒学の貴重書が多くなければ勉学はできません。学生は理解したら次々と書物を読破していき、知識を積み上げていったので、蔵書の質が問われたのです」。

「(憲実が足利学校に寄進した)書籍は、もともと相模(神奈川県)の金沢文庫に所蔵されていたものだと考えられています。永享年間(1429~41年)に金沢文庫は憲実の支配下にあったと考えられ、学問好きな憲実のことですから、文庫蔵書の一部を足利学校再建のために役立てたのでしょう。この時代、儒学の研究は紀元前に成立した古典に注や疏(注の注釈)を付して、本文を正確に読解できることを目指しました。宋の儒者によって付された注を『新注』と呼び、漢や唐などの古い時代に付された注を『古注』と呼びます。五山では新注による研究が主流となっていましたが、憲実・憲忠父子が足利学校に寄進した書物は、いずれも古注でした。関東という僻地であったから古注本しか手に入らなかったというわけではなく、足利学校では古注を重視したのでしょう」。

自分も足利学校のような大学+図書館で学びたかったなあ、と思わせる一冊です。