強かな傭兵隊長にして、ルネサンスを下支えした興味深い人物がいた・・・【情熱的読書人間のないしょ話(1008)】
あちこちに、まだ雪が残っています。因みに、本日の歩数は10,297でした。
閑話休題、大分以前のことになりますが、イタリア・フィレンツェのウフィツィ美術館で鷲鼻の持ち主の横顔の肖像画を見た時は、凄い鷲鼻だなと思っただけで、次の絵の前に移ってしまいました。
この肖像画の人物、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロが、ルネサンス初期に政治面でも美術面でも大活躍したことを、『イタリアの鼻――ルネサンスを拓いた傭兵隊長フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ』(ベルント・レック、アンドレアス・テンネスマン著、藤川芳朗訳、中央公論新社)によって、初めて知りました。
「15世紀には。彼(フェデリーコ)と肩を並べられる(美術の)庇護者はいなかったと言っていい。君主の座にあった数十年間、1444年から1482年のあいだに、マルケのはずれ、山奥の小さな町であるウルビーノは、ルネサンス文化の中心となった。彼の蔵書はあの時代でもっとも重要なもので、蒐集された書物は単に知の貯蔵庫だっただけでなく、同時に貴重な芸術作品でもあった。・・・またフェデリーコの宮殿は、君主の居城として、近世の黎明期における標準となった」。「存命中、フェデリーコは自分の宮殿に学者や芸術家を集め、親しく交わった」。
フェデリーコは、強かな政治的人間であったことが明らかにされています。「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの『国家』の経済状況を一瞥すれば、ウルビーノのもっとも重要な輸出品は、最高の値で借り手がつく軍隊という資源であったことが明らかになる。国家という機械を動かし、金を国内にもたらし、それによって社会状況をも安定させたのは、彼の『傭兵隊』だったのである。結局のところ傭兵隊が、あの度を越えた文化への投資を、すなわちモンテフェルトロの今日まで変わらぬ名前を確立した投資を、可能にするであろう。わけても大規模な建築計画は、国民に仕事と収入をもあたえた」。1400年代のイタリアでは、戦争が一番繁盛する経済部門だったのです。
「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロは、すべての選択肢を慎重に考慮し、機を逸することなく強力な同盟相手を確保し、そののち適切な瞬間にチャンスを掴む男であった」。こうして、次々と現れるライヴァルたちに打ち勝ってきたのです。
フェデリーコは、自分の肖像画の利用価値を知っていたというのです。「彼は、持てるエネルギーのすべてを費やして、自分の特徴のある肖像を自分のトレードマークにしようとし、また同時代人と後世の人々の記憶に正しく刻みつけようとした、古典古代以来最初の君主なのである」。
「フェデリーコは愛書狂と呼ばれるほどの愛書家であった」。「その有名な蔵書は、いうまでもなく単なる気晴らしの道具ではなかった。・・・書物によって、軍人のイメージと冷酷な権力政治家のイメージは覆い隠されていたのである。あの時代には、肩を並べられるほど洗練されたやり方で、自分を書物の力によって創り出し、引けを取らないほど多層的に表現した君主は、ほかにはいない」。何とも、時代に先駆けた、抜け目のない策略家ではありませんか。
「資料をどんなにひっくり返してみても、彼は年若い妻(バッティスタ・スフォルツァ)を心底愛していたという記述しか見つからない。(彼女は)享年わずかに26であった。フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロに嫁いだ1460年以来、子供を宿さない年は1年もなかった」。フェデリーコの一面を示す、この記述に接し、ホッとしました。
中世末期のイタリアを支配していた五大勢力――教皇領、ナポリ王国、ヴェネツィア、ミラノ、フィレンツェ――の間を巧みに立ち回り、自己宣伝にも手腕を発揮して、年ごとに莫大な契約金をせしめた、この有名な傭兵隊長は、同時に、その稼いだ金で、新しく興りつつあったルネサンスを下支えした人物でもあったのです。本書のおかげで、フェデリーコという興味深い人物を知らずに過ごす愚を犯さずにすみました。